「見よ、十字架の木、世の救い」

~『福音の喜び』と日本カトリック平和旬間での十字架の道行き~

梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

  私たちの信仰の基本、それはイエスの死と復活です。「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活した。」これは、私たちの信仰の核です。福音書において、私たちはイエスがどのように苦しみを受け、どのように処刑されたか、十字架の木をしっかりと見つめるように招かれています。しかも、イエスと私たちを結び合わせながら、イエスの苦しみと死という出来事を目の当たりにするように招かれています。

  イエスの苦しみと死の奥深い原因は、私の罪、私たち一人ひとりの罪、そして私たちの罪です。私たちという様々な段階での共同体の罪です。さらに全人類の罪です。私たち一人ひとりがイエスを苦しめ、殺したのです。私たちの様々な共同体――民族でしょうか、国家でしょうか――、様々なレベルの人々の集団がイエスを苦しめ、殺したのです。そして、全人類がイエスを苦しめ、殺したのです。同時に、イエスの苦しみと死は、私たちの苦しみと死と深く結び合わされています。イエスの苦しみと死は、私たち一人ひとりの苦しみと死と結びついています。全人類の苦しみと死と深く結びついています。

  十字架をめぐって、教皇フランシスコは、『福音の喜び』で次のように語りかけます。

  「福音を宣教する共同体は、行いと態度によって他者の日常生活の中に入っていき、身近な者となり、必要とあらば自分をむなしくしてへりくだり、人間の生活を受け入れ、人々のうちに苦しむキリストのからだに触れるのです。」(24)

  「他者の顔、声、要求のうちにイエスを見いだすことを学ぶことです。なお、不当にも攻撃や忘恩の行為を受けるときにも、倦むことなく兄弟愛を求め、十字架につけられたイエスを抱き締めながら耐えることを学ばなければなりません。」(91)

  「イエスがわたしたちのために血を流したことを告白する者は、すべての人間を尊い者にする限りない愛を少しも疑いません。イエス・キリストによるあがないは、社会的な意味をもっています。キリストのうちに神は個人だけではなく、人間どうしの社会関係もあがなうからです。聖霊があらゆるところで働くことを告白することは、人間のあらゆる状況とすべての社会的きずなの中に聖霊が入ろうとしていることを認めることを意味します。・・・福音宣教は、聖霊のこの解放する働きにも協力しようとします。」(178)

  「時にわたしたちは、主が受けた傷から用心深く距離を取ったキリスト者であろうとする誘惑を覚えることがあります。しかしイエスは、人間の悲惨に触れ、苦しむ他者の身体に触れるよう望んでおられます。」(270)

  今ここで、『福音の喜び』で説かれている、イエスの受難の社会的広がりと、19世紀後半から今日に至る東アジアの歴史も視野に入れながら、十字架の道行きをしてみたいと思います。

一隊の兵士とその大隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り・・・ 〔ヨハネ18:12〕
  一隊の兵士とは、ローマ帝国の300人から600人からなる歩兵隊、また下役たちとは、大祭司の監督下にある神殿警備隊でしょうか。イエス一人を捕らえるために、帝国とユダヤ宗教権威が武力を動員します。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下、特にその圧倒的な軍事力の支配下にあります。侵略し併合して得た植民地の状態です。イエスの逮捕、イエスの苦しみは植民地という悪の力、その軍事力という力のもとで始まります。イエスの苦しみは、植民地支配下にあるすべての人々の苦しみ、軍事政権で苦しむ人々と一体となっています。また、不当に逮捕される人々の苦しみと一体となっています。また、自分たちの意思に反して基地建設を強行されている人々の怒りを、イエスは共にします。

大祭司は衣を引き裂いて言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」 一同は、イエスは死刑にすべきだと決議した。 〔マルコ14:64〕
  イエスは、神を冒涜する者として死刑判決を受けます。イエスは、自分たちの宗教や思想のみが絶対であるとする社会の悪のもとに置かれます。また、自らに対する批判を許さない権威の悪のもとに苦しみます。そのイエスは、信教の自由、思想や良心の自由、言論と表現の自由を奪われた人々と苦しみを共にします。また死刑は、その執行方法にかかわらず、残虐で、非人間的で、尊厳を傷つけ、かけがえのない人格を侵すものであり、拒否されるべきものです。死刑判決を受け、死刑を執行されたイエスは、死刑判決を受けた人々、死刑を執行された人々の苦しみを共にします。

ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 〔ヨハネ19:1〕
  イエスは、暴力という悪のもとで苦しみを受けます。イエスは、様々な形の暴力によって苦しめられている人々と連帯します。ドメスティック・バイオレンス、いじめ、拷問、レイプ、言葉による暴力やヘイトスピーチなどで苦しむ人々と共におられます。

アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。 〔マルコ15:21〕
  ローマの兵士たちは、シモンを強制徴用します。イエスの苦しみに、シモンは無理に参加させられます。植民地では、数多くの人々が強制徴用、強制連行されました。彼らの苦しみは、イエスの苦しみと深く結びつけられています。現代社会で使い捨ての商品同様に扱われている人々、研修制度などの名目で奴隷のように働かされている人々の苦しみを、イエスは共にします。

兵士たちはイエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。 〔ヨハネ19:23〕
  イエスは身ぐるみ剥がれ、持てる物すべてを奪い尽くされます。本来自分に属するはずの財産を奪われた人々の苦しみ、文化的生活の手立てを奪われた人々の苦しみ、焼き尽くされ、奪い尽くされた人々の苦しみは、イエスの苦しみです。

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 〔マルコ15:25-26〕
  十字架刑は、当時、ローマ人以外の凶悪犯、そして特に奴隷に対する刑罰でした。イエスは十字架につけられて、死刑となる人々の苦しみ、自由を奪われた苦しみ、軍隊の施設で将兵の性奴隷とされた女性たちの苦しみを共にします。

イエスは、・・・「渇く」と言われた。 〔ヨハネ19:28〕
  1945年8月6日、皮膚は垂れ下がり、服もボロボロになった人も言いました。医者に診てもらえるわけでもなく、だんだん衰弱する人も言いました。「水」「水ぅ」「水を飲ませてください」と。「水を飲むと死んでしまう」と言われて、飲ませてもらえなかった人もいました。この渇きとイエスの渇きが響き合っています。
  多くの人々が霊的に砂漠化した世界のただ中で、一滴の癒しの水を求めてさまよっています。その人々の渇きを、イエスは共にします。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。・・・イエスは大声を出して息を引き取られた。 〔マルコ15:33,34,37〕
  絶望の中で、息を引き取った人々の無念をイエスは共有しています。

  今も、「渇く」、そして「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という十字架上のイエスの声、数知れない人々の苦しみの叫びと一つになっているイエスの声が響いています。その声に、私たちはどのようにこたえるのでしょうか。

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