ホルヘ神父からパパ・フランシスコへ

デ・ルカ・レンゾ SJ
イエズス会日本管区 管区長

  最近、パパ・フランシスコが来日するにあたって、彼についての情報が求められるようになりました。しかし、話題になるかどうかを別にして、どの情報でも良いわけではないと思います。教皇が来るからには、その来日が充実するようなものを選ぶべきでしょう。ローマでも話せる内容であれば、教皇がわざわざ日本まで来る必要はありません。原爆、潜伏キリシタンなど、日本特有なテーマを日本から世界に発信したいと思うとき、その発信が正しく伝わるように日本の教会は協力すべきでしょう。もう一つ、私たちにできることは、ありのままの教会を見せることでもあります。高齢化などの問題も伝える、伝わるようにすれば、ご自身も高齢者である教皇も、その現実にあった話と指導をすることができます。

  劇映画ではありますが、『ローマ法王になる日まで』では、一般的に知られていなかった教皇の側面が描かれました。その時代を体験した者として、平和に関する彼の話には説得力があります。戦争は国同士だけではなく、家族や自分の心にあることを常に伝えるパパ・フランシスコのメッセージがより鮮明に見えてきます。私が1981年にイエズス会に入ったとき、ゲリラと軍事政権は傷跡を残しながら終わろうとしていました。何年間も一緒に住んでいたのに、ホルヘ神父(当時の呼び方)がそれとどう関わったか知りませんでした。振り返ってみれば、ホルヘ神父は自分のことを語らない人でした。

  ホルヘ神父は指導力を発揮し、尊敬に値する先輩でした。サン・ミゲル市にあるイエズス会神学院に移ったとき、ホルヘ神父は私の院長になりました。そちらで、3年間近く彼の指導の下で過ごしました。アルゼンチンのイエズス会神学院が建てられたとき、周りにほとんど家がなく、緑に囲まれていたそうです。そのうちに多くの人が住み着いて、私たちが移ったときには大きな町になっていました。

  週末に神学生たちがそれぞれの場所に行って教会の手伝いをしていました。主に子どもたちの要理、ミサの手伝い、祭りの準備などでした。ホルヘ神父は子どもたちが教会に来るのを待つのではなく、私たちが一人ひとりの家に行って教会に連れてくるように指示しました。言うまでもなく、いつも歓迎されたわけではありませんでした。親はともかく、子どもたちは日曜日の朝に教会へ行くより、遊んだり寝たりしていたかったからです。しかし、何年か経つと、このやり方が定着し、子どもたちも一緒に家を回ることが楽しくなり、仲間意識が増え、「教会が私たち皆の家だ」という感覚ができあがりました。その地域から神父や指導者になる人も出て、現代でも活発な地域です。

  ホルヘ神父が司教になったとき、教会(建物)がなかった地域にも時々神父が行き、テントを張ってスラムの皆さんと会ったり、洗礼や赦しの秘跡を授けたり、ミサを捧げたりするようにしました。当時教会との関係を失っていた人々にとって、教会の差し伸べた手が見える形になりました。

  ホルヘ神父が率いていた神学院には、100人前後の会員が住んでいました。勉強のために通っている先生や外部の学生も多く、多忙でした。それでも、会いたいといった人には、その忙しさを感じさせない態度で接しました。今も、教皇として考えられないほどの忙しさがあるでしょうが、会う人にいくらでも時間があるかのように感じさせる接し方を通しています。去年の9月に特別謁見の機会が与えられたときも、一般謁見を控えていたにもかかわらず、20人足らずのグループの一人ひとりに挨拶し、私たちの話を注意深く聴いて、その内容を把握した上でのメッセージを伝えて下さいました。何より、私たち一人ひとりがどう反応すればいいか戸惑った「来年、日本に行きたい」と述べて、今に至るまでメディアに様々な影響を与えました。

  ホルヘ院長は、一人ひとりの判断力を育てるように導いていました。院長として直接に何かを尋ねても、即返事が返ってくることはほとんどありませんでした。自分で考えれば返事が見えてくるような対応でした。あるとき、許可を頼みに行きました。彼は「自分で決めなさい。その後で報告してくれ」と言って私を帰しました。ホルヘ神父が関わると、このような意外な展開が多くありましたが、いつも考えさせられ、責任感を養う機会となりました。多くの場合、その質問と自分で出した答えが院長との対話、院長と自分を知るチャンスにもなりました。その院長のおかげで、まだ20歳の若者だった私は「怒られないように」という態度から「喜ばれるように」という態度へと変わるようになり、色々な提案を出すようになりました。

  その後、私はアルゼンチンから離れて日本に暮らすことになりました。なので、後のホルヘ司教については聞いた話しか知りませんが、やはり同じ想像力を活かして教会を指導していたと思います。上で述べた貧しい地域への子ども探し訪問を通して、神学生の私たちが差別されていた人の考え、希望などに触れる機会を与えて下さいました。

  現教皇は想像力に長ける人物です。有名になった「焼き場に立つ少年」の写真は、戦争を描いた多くの写真の一枚に過ぎません。長崎に長く住んでいた私は何回もその写真を見たはずですが、原爆の悲惨さを見た後で、特に記憶に残りませんでした。教皇フランシスコがその一枚だけを取り出して、「戦争がもたらすもの」のカードにして配るところに天才的なひらめきを感じます。言うまでもなく、教皇自身が選んだかどうか分かりませんが、自分のものとして使うところにその親しさと配慮を感じます。

  「若者についてのシノドス」に司教たち以外に多くの若者を招いて参加させたことも現教皇になってから初めてで、歴史的なことだと思います。参加者によれば、毎日朝から教皇が皆さんと一緒に参加し、コーヒーを飲んだりして親しさを感じさせたといいます。

  現教皇として親しまれるフランシスコは、ご自身が持っている良さをさらに発展させながら、さらにそれを人々のために用いているように思います。

 

  教皇来日を楽しみにしましょう。教会内外でもこの訪問に関する賛否両論があります。健康と忙しさを考えれば、世界で教皇の訪問を受けたことがない国がどれほどあるかと思うと申し訳ないとさえ思えます。やはり、教皇の来日とその内容は本人とその補佐たちによる深い理由があって初めて決まるものであり、日本側の誘いは外面的な表れに過ぎないと私は思います。おそらく、世界のメディアも教皇フランシスコがわざわざ日本まで行って話したいこと、会いたい人々にも関心を示します。聖ヨハネ・パウロ2世の「平和宣言」はあの場所で行われたからこそ、今に至るまで影響を与えています。同じように、日本でのパパ・フランシスコの活動と話は、日本で行われて初めて本来の使命を果たすと思って期待しましょう。

  何よりも祈りをもって支え、教皇が日本でしか話せないメッセージが伝わるように、私たち皆が一体となって関わりたいと思います。

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