ペドロ・アルペ神父の権威の奉仕

酒井 陽介 SJ
上智大学神学部講師

  編集者から依頼されたテーマは、アルペ神父に関して、特に彼の社会(問題)に対する関わりについてということだったが、少し別の観点から取り組んでみたい。それは、パワーという論点である。パワーは、言わずもがな、力と権力のことで、使い道を誤れば暴力にもなる、なかなかのクセモノだ。しかし、その力は使い方次第で、統治の不可欠な要素にも、奉仕の道具にもなる。すなわち、権威の奉仕という形をとることができる。ここでは、彼の総長職の検証よりも、当時、新しい時代の地平に向かって歩み出したイエズス会を牽引したアルペ神父の権威の奉仕の姿を見ていくことにしたい。
 

《第二バチカン公会議とアルペ神父》
  当時、バチカン中枢部には、アルペ総長は聖なる人に違いないが、秀でた指導力は持ち合わせていないという見方があった。また、会の中でも、幾分、理想主義的で、識別においては、どちらかといえば、会員個人の裁量に任せている印象を持たれていた。すなわち、統治の資質にある種の疑問が投げかけられていた。アルペ神父というと、そのカリスマ性が取り沙汰されるが、彼は自分の裁量に固執し、夢に酔いしれるナルシシスティックなタイプの指導者ではなく、また当時の世界に多くみられた専制的かつ好戦的な権柄づいた支配者でもなかった。もちろんのこと、彼の統治に間然するところが無い、ということでは無く、言ってみれば、それは、神と人間への信頼に満ちた希望に裏打ちされたものだった。その意味で、彼は「あきれるほど」神への信頼を貫いた。ある人は、それを夢想的な楽観主義と揶揄した。しかし実際、アルペ総長は体を張ってイエズス会を、そして会員を導き、守った。たとえ、彼のリーダーシップに抗った会員たちがいたとしても。

  アルペ総長時代(1965~1983)の世界と教会、そしてイエズス会は、困難な時代の中にあったことを忘れてはいけない。混迷を極めていた時代に、閉塞感を打ち破る力として、1962年、教皇ヨハネ二十三世の英断で第二バチカン公会議が召集された。この公会議は、アルペ神父の権威の奉仕を考えるとき、極めて重要な意味を帯びている。アルペ神父の統治は、旧態依然の権威主義とは別の奉仕のあり方と行動様式がはっきりと求められた時代にあって、イエズス会にとって、実に、公会議の示す新しい地平に向かうために不可欠な行動様式となった。何よりも彼の統治のスタイルが一石を投じ、イエズス会のみならず、教会において、対話に開かれた新しい統治のあり方が意識された。彼が国際修道会総長連盟の会長を1967年から五期連続で務めたことを見れば、それは明らかなことだ。その意味で、アルペ神父は、公会議によって教会に示された新時代(それは一朝一夕に理解され、実現されたものはないが)を生きる奉献生活の開基の人と言っても言い過ぎではないかもしれない。そうして、公会議後の教会感覚(sensus Ecclesiae)の体現に努めた。そうした姿に、イエズス会出身の現教皇フランシスコが打ち出している権威の奉仕のあり方と相似した点を感じるのは、私一人ではないと思う。
 
《預言者的統治》
  預言的であるとは、世に向かってその矛盾を示すことである。コルベンバッハ元総長は、アルペ神父は「逆らいのしるし」であったと言った。それはイエズス会内外にあった意見の相違や、時には誤解から生じたものであった。時代の分岐点とその前線にいた彼は、常に対立や緊張の矢面に立たされていたと言えよう。古き(良き)時代と新しい可能性、忠誠心と創造性、積み上げられた伝統と未来に眼を向ける預言的洞察、そして組織とカリスマというイエズス会内外に起こっていたテンションの真只中にいた。実現こそしなかったが、70年代のはじめ、スペインでは、アルペ神父主導の変革に抗った古参の会員たちが、独自の会則まで作り、いわゆる「改革(厳律)イエズス会員」なるグループの狼煙もあがった。

  それにしても、アルペ神父の統治の特徴は、危機的状況の中でこそ希望が燃立つという確信に基づいていた。そこには、神への堅固な信頼から来る「あきれるほどの」委託の精神があった。聖書の預言者たちも、やはり神と人との間にあって、苦慮しながら、大いなる力のある方に委ねた。そうすることで、人間に神の思いを伝えようとした。ヨナにせよ、ホセアにせよ、エレミヤにせよ、預言者は神の思いから逃げ切ることができずに苦悶しつつ、命がけで伝えることを引き受けた。アルペ神父もまた、命がけで神の望まれるイエズス会の新しいあり方を模索し、伝え、先陣を切った。
 

《イグナチオ的統治》
  アルペ神父自身も、時代の要請と教会に寄せられた切迫した変化への必要性の中で、意識的に権威の奉仕の形を探した。就任直後の日記にこう書いている。

――総長とイエズス会、そして会員一人ひとりとの関係を促進し、確かなものにするために、大いなる努力がなされなければいけない。このためにいかなる労も惜しんではいけない。これこそ、聖イグナチオの統治のスタイルに欠かすことのできない重要な点である。(“Chosen by God”)

  イグナチオ・ロヨラが会憲の中で示している特徴の一つは、人間関係を主軸にした統治のあり方だ。一人ひとりの会員の心身と霊的生活への配慮、そしてミッションを遂行する上で可能な限り適した人材を配することに注意が向けられている。いわゆる、Cura Personalisの伝統である。アルペ神父は、今日のイエズス会への影響という点で、イグナチオ以降、歴代総長のなかで抜きん出たリーダーシップを発揮した一人と言えよう。ただ、その方法は、トップダウン方式ではなく、会員一人ひとりがイエズス会的な方法に則って行動するよう励まし、信頼と自由を分かち合った。彼は、信頼がもたらすリスクを十分承知の上、それでも信頼をかけることに重きを置いた。確かに、時代の要求に呼びさまされたフロンティア精神が呼応したのか、この時期の会員の研究・著作活動や社会使徒職は盛り上がりを見せた。その分、バチカンから目をつけられる会員の言動も少なくはなかった。それでも彼は、信頼を寄せた会員たちのためにできる限りのことを尽くした。彼は冗談交じりに次のように願った。「あなたたちのことを、もう少し弁護しやすくしてくれまいか」と。

  会の向上を願うのは言うまでも無いが、会員一人ひとりがキリストに向かって成長することをそれにも増して意識していた。よく知られている『インカルチュレーション(文化受容)について』(1978年)の手紙は、その意味で、イエズス会と会員に、はっきりとした形で識別のための絶え間ない葛藤(dialectical tensions)のチャレンジを突きつけた。同時に、会員との関係においても、適宜な自由と正義が意識され、実践された。それは、アルペ神父のイグナチオ的な分別に満ちた愛(discreta caritas)の表れだったが、権威について異なる理解を持っていた当時のバチカンには、それがイエズス会の不身持ちと映った。それでもアルペ神父は、思慮深い愛と信頼を、まず、会員たちに惜しまず分かち合った。そのような雅量(Magnanimity)は、常に勇気を要する営みだ。こうしたアルペ神父特有の大らかさと時に向こう見ずともとれる果敢さは、かつて日本で田舎宣教師であった頃、市井の人びとと紡いだ日常や原爆が投下された当時の広島に生きたことによって培われたと考えるのは、少々ひいき目だろうか。
 

《権威の奉仕と共同の力》
  パワーは相対立する価値観、すなわち、自分にとって重要なこと(主観的重要性)とそのものが有する重要性(客観的重要性)を擁する。時として、人はパワーを手にすると、自分の思いに気持ちが傾き、権力を一手に掌り、徐々に正道を踏み外すことがある。それだけに、パワーは行使する人を解き放ち、本来の自分が顔を出す。初期のイエズス会も、一部の会員のパワーの問題には、頭を抱えた。例えば、創立メンバーの一人であるシモン・ロドリゲスは、管区長としての専制的リーダーシップとイグナチオへの不従順な態度から、ポルトガル管区を混乱させた。また、もう一人の熱意溢れる初期メンバーのニコラス・ボバディリャに至っては、長老格でありながら、時にイグナチオを暴君呼ばわりし、歴代の総長を悩ませた。果たしてパワーを手にした人々が誠実であるには、どうしたらいいのだろうか。

  聖書の伝統では、パワーは元来、神から来るものであり、神の力を意味した。しかし、イスラエルの民は神に王を要求し(サムエル上8.7-9)、人間が神に代わって統治をするようになってから、人を魅するその力は、あたかも自分が何者かであるような誤解を支配者に芽生えさせ、眼を曇らせた。けだし人は、パワーを行使するにしても、受けるにしても脆弱な存在だ。それだけに、パワーの行使には「義」と「賢明さ」の徳が不可欠となる。正義に適い、思慮深いパワーの行使とは、直情的でもなく、気まぐれでもなく、また忖度も要求しない。それは、自己を差し出す勇気と謙虚さが必要となる。

  総長に選出された直後の個人黙想で、アルペ神父は次のように書いた。

――いただいた資質や恩寵は、私のために賦与されたものではなく、イエズス会と教会のためである。(中略)大いなる恵み、然るに大いなる責務である。(“Chosen by God”)

  ここに一つの答えがある。すなわち、責務と権威は仕えるために神にいただいたものであって、それ故に自己を寛大に差し出していく心を保ち続けることが要となる。イグナチオも、権威は謙遜さによってのみ獲得するように教えている。アルペ神父は総長就任の時から、このパワーを擁する職責がいかに重要であり、同時にいかに危うさと隣り合わせなのか気づいていた。その努力を裏付けるかのように、彼は第三十三回総会の別れの挨拶で次のように述べた。

――神の寛容さは、私に対し、限りがありませんでした。私としては、それがイエズス会のためにいただいている恵みとしてしっかりと受け止めながら、会員一人ひとりと分かち合う努力を惜しむことなく続けてきたつもりです。

  人が力(パワー)を意識し、それを他者のために、他者とともに使おうとするとき、その力によって人間は共に生きようとする意欲を感じることができる。それをかつてリクールは、「共同の力(power-in-common)」と呼んだ(『他者のような自己自身』)。言ってみれば、共同の力を生み出すパワーこそ、アルペ神父が総長として行使した権威の形であった。イエズス会「第二の創立」にあたっては、その力が大いに働いた。そのパワーは暴力的な行為への最大のアンチ・テーゼとなり、連帯への確かな足掛かりとなる。これこそ、シノダリティ(synodality)のことだ。その意味で、イエズス会特有の私たちの行動様式(Our Way of Proceeding)とは、個人の才覚やパフォーマンス偏重ではなく、まさに共同の力に支えられ、人々と共にあり、働くということ。そこにアルペ神父の場合、「明朗さ」が加味された。神の国のために働くことは、眉間にしわを寄せることではなく、寛大に(アーメン)、喜んで生きること(アレルヤ)に他ならないということだ。

  価値観の混乱する時代にあって、アルペ神父はよりよく仕えるために、神がイエズス会に望まれていることは何かを、怯まず、そして諦めず、イグナチオ的な使徒的本性を保ちつつ、世界のイエズス会員たちと新しい答えを探した。その中でよく知られた、「他者のための人」の講話がある。1973年、アルペ神父はバレンシアで開かれたイエズス会系学校の同窓会で次のように述べた。

――人はより完全な人とならなければならない。〈人々のため〉にある人になることこそ望ましい。これは正義の推進のための教育である。(中略)利己主義による非人間化ではなく、愛による人間化を目指そう。(中略)〈人々のための人間〉、新しく生まれ変わる霊的な人間は、キリストの霊と共にますます成長する。人々と共に感じ合う愛には、限界がない。(「せせらぎHP」より)

  彼は、他者のためにある人とは、寛大に自分を差し出していく人のことであり、そして、ともに痛みを生きる連帯を培うことが、イエズス会教育の根幹にあることを告げた。その体験は、そこに参加する人びとがキリストとともに成長していくにあたって、ふさわしい機会となる。彼は、ここで福音的かつ人間論的なパワーの行使(奉仕)を提言している。それは、単に思想的な訓示などではなく、アルペ総長自身の権威の奉仕の要約でもある。この精神が、第三十二回総会の正義の促進の基盤になっているのはいうまでもない。
 

《キリストに仕える者の権威》
  総長に就任してまもなく、アルペ神父はこう会員に告げた。

――人生には一つの望みしかないこと、全ての魂を挙げてイエス・キリストを愛するという、ただそれだけの望みしかないということです。それが、あなたの全存在にとって揺るがない考えとなりますように。

  また、総長職も終盤に差し掛かった頃、キリストはあなたにとってどういう存在かと問われた。彼は答えた。

――私にとってイエス・キリストはすべてです。イエズス会に入会した瞬間から、彼は私の理想でしたし、今もそうです。彼は私の道でしたし、今も道であり続けています。彼は私の力でしたし、今でも私の力になって下さっています。(中略)私の生活からイエス・キリストを除いてしまったら、すべてが壊れてしまいます。(『一イエズス会士の霊的な旅』)

  一貫したキリストへの自己奉献が、キリストに仕える者の権威の奉仕のあり方であることがここから浮かび上がってくる。仕えるために来られたキリストとの日ごとの出会いが、キリストこそが力そのものであり、生きる力の源であるという確信を与える。

  病身となったアルペ神父が、総長辞任の挨拶の中でこう言った。

――私は以前よりもいっそう、神のみ手の中にいる事を認識しています。このことは、若い時からずっと望んできたことです。しかし、今は少し違っています。それは主導権が完全に神にあることです。(『アルペ神父とともに祈る』)

  イエズス会総長職という権威の奉仕を全うした彼は、人生の歩みの中で育まれたキリストの感覚(Sensus Christi)を念持しつつ、自分の全てを委ねきる境地へと進んでいった。晩年、身体の機能の自由を奪われてもなお、彼だけが知る「魂の来客」との交わりのうちに沈黙を生きた。最後に、アルペ神父の祈りをもってこの小さな考察を締めくくりたい。

主よ、今や、すべてのものを新しいまなこで見る
恵みをお与えください。
時のしるしを読むにあたって、霊の動きを識別し、
確かめる助けとなるために。
あなたからいただいた恵みを味わい、それを
他者に分かち合っていくために。
あなたが、かつてイグナチオにお与えになった
明晰な理解を私にもお授けください。

Comments are closed.