天皇の「代替わり」をキリスト者としてどう捉えるか

星出 卓也
日本長老教会西武柳沢キリスト教会牧師

Ⅰ.日本国憲法下に残る「国家神道」
  「天皇の代替わり」というテーマを考えるにあたって確認しなければならないことは、「戦後」も「戦前」と全く変わらない連続しているものがあることです。断絶しているように見えて、実は、地中深く「古層」のように、「基調低音」のように隠れていたものが、「代替わり」をきっかけに表に現れてくる。そのような、戦前と戦後を通じて「連続」しているものを確認しなければなりません。

  戦後、国家神道体制の解体は、建前上は行われました。1945年の「神道指令」は、国家神道体制の解体のために定められ、神社は内務省管轄の国家機関から、宗教法人神社本庁へと変わりました。キリスト者にとって「上智大学靖国神社参拝拒否事件」に象徴されるように、神社参拝を強要されそれを容認した歴史があるゆえに、教会は神社参拝に関しては敏感なセンサーを持っていると思います。しかし国家神道体制において一番中核に位置していたのは、「神社」である以上に皇室を中心に行われる宮中祭祀でした。その一番の中核である天皇が行う祭祀に関しては、戦後も手を付けられず続いている現実があります。天皇の「人間宣言」はなされても、皇室祭祀を担う天皇の職務は依然として今現在も継続しています。

  戦後において、天皇が年間を通じてどのような仕事を行っているのかはあまり知られていません。天皇がするべき仕事は、日本国憲法に書いてあるのです。憲法第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」と書いてあり、その内容は7条に記されています。しかし「国事に関する行為のみ」と記されながらも、実際には天皇は国事行為以外の沢山の仕事を精力的に行っています。外国訪問や追悼の旅等は「国事行為ではないが公的なもの」とされて、新年一般参賀や宮中晩餐会、各地への訪問等もこれに当たります。これらの行為はマスコミによって報道され、人々の間で最も知られ、宣伝されている行為でありながら、実は何ら法的な根拠を持っていません。これらの憲法に規定がない天皇の行為。しかし「公的行為」なる何ら法的に根拠のない名称までも付いてしまった、この憲法の規定を越えた天皇の仕事に関する問題は、今回は扱わず、別な機会に譲ります。

  さて、「国事行為」にも「公的行為」にも含まれない「私的行為」と分類されているものがあります。「私的」なのだから、「天皇のプライベート」と思うかもしれませんが、実はこの「私的行為」の中に天皇にとって最も重要な職務と位置付けられているものがあります。それが「宮中祭祀」です。この宮中祭祀こそが、天皇が皇居の中にある宮中三殿〔写真〕という場所を中心に年間を通じて行っている神道行事なのです。
  「宮中三殿」とは、天照大神を祀る「賢所」(かしこどころ)、歴代の天皇・皇族の霊を祀る「皇霊殿」(こうれいでん)、天神地祇(てんしんちぎ)・八百万神(やおよろずのかみ)を祀る「神殿」(しんでん)の三つの総称のことです〔下図参照〕。天皇は、この宮中三殿にて記紀神話に記された天照大神を始めとした八百万の神々への宗教的祭儀を、年間を通じて祭司として執り行っているのです。
  戦前の「神権天皇制」下にあった大日本帝国憲法下にあっては、皇室祭祀は天皇に関わる国家的祭祀として皇室祭祀令に定められ、年間を通じて行われてきた国家神道の中心的な行事でした。戦前において皇室行事を定めた旧・皇室典範を始め、宮中で行う祭祀を規定した皇室祭祀令、天皇の即位儀式を定めた登極令などの法令は、戦後の日本国憲法が施行される一日前の1947年5月2日にすべて廃止されました。これらは憲法の重要原則である国民主権や政教分離原則に明確に反するとされたからです。しかし、その翌日の新憲法施行と全く同じ日に、宮内府長官官房文書課長であった高尾亮一氏は「依命通牒」なる通達を出します。その通達には「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とあります。「従前の例」とは、憲法施行の前日に廃止されたもろもろの旧皇室令の前例に従って、という意味です。つまり、戦後に旧皇室典範もろもろの皇室祭祀を定めた諸法令は廃止されながらも、この廃止されたはずの法律に基づいて戦後も戦前と何ら変わらない諸儀式が続くことになりました。
 

Ⅱ.「国事行為」として姿を現す宮中祭祀
  普段は皇居の中に隠されて、市民の目には触れることの少ない宮中祭祀ですが、それが公の面前に登場する場面が、まさに今回のテーマである天皇の代替わり儀式です。「退位、即位に伴う式典準備委員会」三回目委員会にて、式典挙行の第二番目の基本方針を以下のように定めました。

  「平成の御代替わりに伴い行われた式典は、現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであることから、今回の各式典についても、基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること。」

  この基本方針は、30年前の裕仁から明仁への代替わりの際の式典挙行において、「現行憲法下において十分な検討が行われた」と主張しています。しかし、その現実は、戦前の帝国憲法下にて、国家神道体制を具現化した皇室祭祀令や旧皇室典範下で定められた登極令にすべてならったのが実情です。具体的には、天照大神の神勅に基づいて、天皇が神的な権威を受け継ぐことを表す儀式がそのまま行われています。

  また式典準備委員会の式典挙行の第一の基本原則には「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したもの」として行ったものとされた、と主張されています。「憲法の趣旨」とは具体的には、主には憲法20条3項の「政教分離原則」及び89条の「国の財政による宗教行事への支出の禁止」を指すものでしょう。つまり、「政教分離原則」と「皇室の伝統」が何らぶつからないものとなったということです。もっと詳しく言えば、戦前の国家神道体制下の法令通りの祭祀令に従って挙行された儀式が、政教分離原則から見ても合憲なものとされた、という意味です。

  今まで隠されてきた宮中祭祀が、天皇の「私的」な行事ではなく、「国事行為」あるいは「公的行事」として市民の面前に現れ、そしてこれらの儀式が、政教分離原則とは違反しない前例として戦後二度目にダメ押しを入れるように定着するということです。これは宮中祭祀に関しては、どんなに宗教的儀式であろうとも、政教分離原則はもはや手が付けられない不可侵な領域となるということです。
 

Ⅲ.キリスト者として捉えるべきこと
  宮中祭祀で祀られている神々は、聖書の世界観から見ると、これらを単なる「文化」や「皇室の伝統」と簡単には見過ごせない異教的礼拝であるということをキリスト者は聖書の教えからまずは受け止めなければなりません。創造主とは異なる神々を礼拝する儀式は、十戒の第一戒が創造主への礼拝との共存を許さないもの、私たちの神礼拝を損なうものであるということです。つまり、天皇の代替わり儀式を天照大神の神勅に基づいて行うことは、私たちの信仰の良心を損なう儀式を、日本政府が国家的行事として行おうとしているという問題です。いわば我が国は、バアルの礼拝を国家的行事として行う、そのような国に私たちは主の民として遣わされているという事実をキリスト者はまず受け止める必要があるでしょう。

  マタイの福音書16章16節にてペテロがイエス様に答えた「あなたは生ける神の子キリストです」の意味は、「あなただけが」という意味が明確にあります。「あなたも神々の一人」という意味ではなく、「あなた以外には神はいない」ということを告白するものです。この同じ信仰を私たちもまたこの時代の中にあって告白するということは、「天皇は神的な存在ではなく、神に創造された人間に過ぎない」ということをわきまえることを意味します。戦前・戦中において「天皇は神ではない」と告白することは不敬罪をもって取り締まりの対象となり、「国体」(天皇を中心とする国家体制)に反する者として社会からも排撃されました。この社会の中にあって神よりも人を恐れたキリスト者は、「あなただけが神」の信仰告白にしっかりと立つことができませんでした。

  天皇即位の儀式にて、天皇の神的権威が表現される中で「あなただけが生ける神の御子」と告白するということは、天皇もまた創造主の前に悔い改めるべき罪人の一人であることを明確にし、祝賀ムードに逆行して、宣伝される「天皇の神的権威」にNOを語る信仰が今日問われてくるでしょう。

  また、これらの課題は、キリスト者の信仰を守ることのみならず、神が建てられた社会が、健全な社会となるために大切なことです。戦前の国家神道体制下において、日本社会は天皇を拝礼しない人という例外を一人として許しませんでした。多様性を認めず、非国民として排斥しました。これはある特定の宗教を信じることを強制することによって国民を統合しようとしたことによる悲劇です。しかも人が創り上げた神は、人を造られた神とは違って、人によって支えられなければ成り立たない存在です。信じない一人の人が存在することによって、人が創り上げたものがもろい存在であることが露呈してしまうのです。参拝しない人が一人いることで、何かその場が空気が抜けた風船のように、炭酸が抜けたソーダのようになってしまうからです。人に支えられることを必要とせず、むしろあらゆるものを造られ支えられる神には、そのような必要はありませんが、人に支えられなければ成り立たない神を成り立たせようとする人々にとって、そうしない人の存在は、たった一人であっても脅威なのです。ゆえに例外を一切許さない不寛容な社会となるのです。

  裏を返せば、真の創造主を信じ、まことの神への信仰を告白し、他の神々を礼拝しない存在はたとえ少数であっても、たった一人であっても、その存在は社会の偽りを明らかにする力があるということです。その少数者に何かの力も、権力も、勢いもありません。あるのは「この世界が神の言葉によって造られ、今も維持されている」という神を信頼する信仰だけです。その神の言葉を真っ直ぐに信じ、他の神々を礼拝しない者の存在は、不寛容な社会の在り方のゆがみを明らかにし、多様性を重んじ、全体の統合よりも、一人ひとりを大切にする、特に一人の人間の良心を重んじるという、社会の本来の在り方を教える重要な存在となるのです。

  2019年4月1日の元号報道から始まり、これから天皇の退位儀式、即位儀式に向かって報道は天皇一色に染まるでしょう。「天皇の神的権威」を宣伝するためメディアを通して一大布教キャンペーンが張られることになるでしょう。そして同時に、天皇の神的権威に反対する者への非難や排斥が起こるでしょう。その中にあって「天皇は神に創造された一人の人に過ぎない」とその「神的権威」の主張にNOと語る者の存在は、ますますこの時代とこの社会にあって重要となるのではないでしょうか。
 

【天皇制・天皇の代替わりとキリスト教】
星出卓也牧師 (2019年1月16日)

Comments are closed.