核技術に対するキリスト者の省察

キム ジュンハン
カトリック釜山教区 正義と平和委員会委員長

韓国教会の核技術に対する立場
  核技術に対する韓国教会の関心は、2011年の福島原発事故を起点に明るみに出始めました。もちろん、福島原発事故以前にも、霊光(ヨングァン)原子力発電所建設などに対して光州(クァンジュ)大司教区を中心に主導的に対応してきましたが、あくまで地域教区のレベルの関心を超えることはできませんでした。しかし、福島原発事故は、核は単に地域的な問題ではなく、全国、いや、人類の問題ということを悟る重要なきっかけになりました。

  特に2011年10月31日、当時、韓国カトリック司教協議会の会長であった姜禹一(カン・ウイル)司教の招請講演「脱原発社会に向けたキリスト者の省察と責任」は韓国教会の中において、核の問題を本格的に考えるように導きました。姜禹一司教は、原子力発電所事故が「数千万人の生命に関わることであり、我々人間の基本的な生存権が根元から揺さぶられる大災害につながる問題」であると定義しました。同年、カトリック環境賞も「三陟(サムチョク)原発誘致白紙化闘争委員会」へ授与され、次いで11月、日本の仙台で開催された第17回韓日司教交流会が「いますぐ原発の廃止を ~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」(2011年11月8日)という声明で標榜した精神が、韓国教会の脱原発運動の流れを導くことになりました。

  これに加えて、2012年1月16日、安東(アンドン)教区の寧海(ヨンへ)教会で、カトリック独自の団体である「東海岸の脱原発 カトリック連帯」が発足することになりました。そして2012年と2013年には、教会の脱原発の動きが継続していくことになります。すぐに司教会議レベルで、新規原子力発電所建設の試みや原子力発電所の電気を輸送しようとする密陽(ミリャン)送電塔建設に対する反対声明の発表と現場訪問が行われました。特に2012年11月、慶州(キョンジュ)で開催された第18回韓日司教交流会が「脱原発は生命です」という主題で進められたのは、韓国教会にも大きな刺激になりました。

  このような多様な脱原発運動に関する最初の公式的な結実は、2013年秋季司教会議で承認された『核技術と教会の教え ―核技術に対する韓国カトリック教会の省察』という小冊子の発刊ということができます。核技術の問題を教会の社会教理原理に照らして省察したこの小冊子発刊の辞で、姜禹一司教が「私たちが直面しているこの状況は、個々人の利益を計算して、代案や時期を検案する問題ではありません。私たち自身、そして現在と未来のすべての人類のために、今すぐに決断しなければなりません」と述べたことにより、核技術問題の深刻性と我々の即刻の参加の必要性が、科学的かつ神学的に整理されました。

  この後、韓国教会はさらに活発に脱原発運動を進めることになります。特に2015年9月14日、「脱原発 カトリック連帯」の発足を含めた各種声明の発表、脱原発セミナー、脱原発希望 ― 国土徒歩巡礼、記者会見や講演が続いていきました。2017年春季司教会議では、「さようなら原発100万人署名運動」を公式に承認して教会の中において活動することになり、そして19代大統領選挙候補者に対する韓国カトリック教会政策質疑書にも、脱原発の議題を含めながら脱原発の必要性を強調しました。そして今日の「2018 韓日脱原発のための平和巡礼と懇談会」も、脱原発へと向かう韓国教会に大きな刺激と新しい方向を提示する契機になるだろうと信じています。

※〔訳注〕 日本の「さようなら原発1000万人署名」に着想を得て始められた、韓国での同様の取り組み

 

新しい提案
  恐るべき核戦争の危険に直面して新たな平和、神学を主張したトマス・マートンは「私たちは合理的、精神的であり、人道的であるため、最高水準の精神的・倫理的規範によって行動することにより、この世の中で生き残る価値が十分ある存在であることを証明してみなさいという挑戦を受けている」と言いました。創造主である神に対する信仰告白で集まったカトリック教会は、そのような面において、神と世の中のすべての人に核技術の問題を信仰的に解釈し、その危険を警告し、実践しなければならない責任と権利があります。

  まず、核技術の問題は、一国レベルの問題に限定されません。少なくとも北東アジアレベル、すなわち韓国、日本、中国、台湾、そして特別行政区に分類される香港教会が国際連帯を成し遂げて、カトリック的な脱原発、平和の連帯を構成する必要があります。特に現在原子力発電所36基を運転中で、20基を建設中の中国は、2030年までに計110基の原子力発電所の運転を計画しています。これは韓国と日本が直面している深刻な問題でもあります。これに対して、北東アジア地域のカトリック教会が脱原発のための教会の意志を明らかにして、やがては全世界の教会のレベルで、生命の主人である神と脱原発のための教会の使命を堅固にすることに乗り出さなければなりません。

  このために、さらに各国カトリック教会は司教会議のレベル、そして地域教区の脱原発運動の内実を固める必要があります。単に全国的なレベルだけを図ることは、根なしに実を期待することと同じです。さらに、脱原発運動を志向する市民社会団体の流れに引っ張られるだけでも十分ではありません。教会が独自の組織と意味を込めて脱原発運動を展開していく際に、市民社会との健全な連帯も成し遂げることができます。

  教会のあらゆる活動がそうですが、脱原発運動もしっかりした神学的基礎を固める必要があります。韓国教会において、まずは社会教理的レベルで脱原発の必要性を主張したとするならば、これからはもっと広いレベルの脱原発神学を考えなければならない時です。多様な脱原発神学の流れを作ってきたキリスト教は、聖書を通じた脱原発の神学的意味を探求し、基礎神学的な思索も行いました。これは、単に専門的な神学者の研究だけでなく、多様な教会の構成員が自分の人生の場で、核技術が持つ信仰的意味を考え、分かち合い、その成果を整理する作業が必要です。もしかしたら、このような神学的作業が、教会がどのような世の中の流れにおいても、創造主である神に対する信仰告白の中で、持続的に脱原発の流れを主導していくことができる最も大きな力となるかもしれません。

  朝鮮半島は、南北首脳会談と米朝首脳会談を経て、「非核化」が一つの時代の兆候になっています。しかし、現在の朝鮮半島と関連した非核化論理はただ「北朝鮮の非核化」だけを取り扱っています。これに対して教会は、朝鮮半島の非核化を取り上げるこの時代に、伝統的な核兵器反対運動と原発反対運動をまとめる新しい反核運動を考えなければならない時です。核兵器から原子力発電に転用されてきた核技術の歴史は、朝鮮半島だけでなく、日本などの場合でも原子力発電を通じて核兵器へと前進しようという流れが感じられます。そのため、我々は核兵器と原子力発電の技術的、政治的、軍事的同質性を把握して、このすべてに対して反対する運動を展開する必要があります。そのため北朝鮮だけでなく、韓国の非核化、核兵器と原子力開発の即時廃棄と、これを通じた北東アジアの非核化に向けた新たな枠組みを探さなければならないでしょう。そのような面から、2020年までにすべての原子力発電所を閉鎖するというドイツの動きも、自国に配置された数十個の戦術核兵器を黙認する限り、その限界が明確だということも参考にしなければならないのです。これを通して、教会は核技術と関連するすべての原子力発電所、原子力研究施設、原子力潜 水艦や原子力空母が出入りする済州(チェジュ)江亭(カンジョン)村海軍基地、事実上核兵器に対応するシステムの一環である星州(ソンジュ)・ソソンリのサード基地などを含めた反核平和運動を推進する神学的基礎と教会組織が必要です。

  核マフィア(原子力ムラ)は、わが社会の特定の集団だけを指す用語ではありえません。すでに韓国社会は核技術によって中毒となっている状態で、我々は核兵器開発段階から原子力発電所の運営、そしてその事故の影響で被曝した人生を生きているのです。そのため死の技術である核技術から断絶して生命の主人である神の意志によって「命を得て、さらに得て、溢れるほどに豊かになる」(ヨハネ10・10)教会は、現在の文明に対して真剣に反省しなければなりません。そのような面において、核は単にエネルギーの問題ではありません。再生可能エネルギーへ転換するからといって、この社会が核技術の中毒状態を脱することができるわけではありません。絶えず戦争をしながら、核兵器の恐るべき威力にとらわれた人類は、もはや核開発を通じて核技術を我々の人生の真ん中に植えました。今、韓国と日本の教会が生命の主人である神とその方が愛する世の中のすべての人に応えなければならない時です。私たちは核時代を生きながらどのように信仰告白をするのか、このために私たちはどのように全力を尽くしていくのか、真剣に応えなければならない時なのです。

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