神学生沖縄体験記(2) 神の義と平和

チョン ホンチョル SJ
イエズス会神学生(韓国管区)

  エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣きました(ルカ19・41)。ご存知のように、イエスがこのように泣いたという表現が聖書に直接書かれている箇所はそう多くありません。そこで私は、イエスはなぜそんなにも悲しかったのだろうかと考えてみました。

  私は2018年11月初旬に沖縄で行われた韓日社会使徒職会議に参加しました。今回のテーマは「東アジアの平和の促進」であり、当然ながら、沖縄で起こった戦争と沖縄に置かれた米軍基地について多くの話を交わしました。講義を聞き、議論をするだけではなく、実際に戦闘が行われた地域を見学し、米軍基地の前での平和デモにも参加しました。「子どもたちの未来には戦争も暴力も必要ない」というスローガンがもっとも印象的でした。こうした体験の中で、驚いたことが二つあります。

  今回参加したほとんどの人は、軍の基地に馴染みがなく、特に住宅地の近くに軍事基地があるということに愕然としていました。けれども、私はまったく驚きませんでした。というのも、私はイエズス会に入会するまでの5年間、空軍の将校として仕官していたからです。兵士たちを教えることが私の仕事でした。私の教え子たちは今、軍事飛行場で飛行機の修理をし、管制室で働き、兵器の操作をしています。私は彼らがもっとしっかり働けるようにと教育しました。自分の仕事が平和の維持に役立つことを望んでいました。また、軍に仕えている間、軍事基地が近くにあることで市民たちはより安全だろうと思っていました。基地が市民を守ると考えていたからです。

  ところが、基地の近くの住民たちは、訓練中に事故が起きる危険性を常に恐れ、再び戦争に巻き込まれるのではないかと心配しています。私たちがよく知っているように、平和は平和によってでしか得られません。他の参加者とは違って、私がいかにそのような暴力的な文化に染まっているのかに気付くことができ、自己嫌悪に陥りました。

  会議が行われた5日間、私は終始「人はなぜ戦争なんてするのだろうか?」と自問しました。多くの犠牲者と残された遺族の痛みを思い起こしながら、世の中で繰り広げられる大小の争いについて考えました。そしてまた、私の中にある暴力性についても省察しました。私は負けず嫌いな性格で、たとえ小さなことであっても勝ちたい、少なくとも負けたくはないと思う気持ちがあります。また、これまで自分の利益を追求していましたし、もっと多くを得ようとする気持ちが今でもあります。私は明らかに、この暴力の文化に加担しているわけです。なので、とても恥ずかしく、悲しい気持ちになりました。

  もう一つは、戦争当時、責任を負っていた人々の行動でした。敗戦は火を見るよりも明らかで、これ以上闘い続けることは無辜の犠牲者の数を増やすだけにもかかわらず、軍の責任者たちは敗北を認めて責任を取るどころか、自決することを選びました。その結果、より多くの人々が犠牲になりました。名誉を汚さずに天皇に忠誠を誓うことこそが正しいことだったからです。間違った思想と教育が、どれだけ多くの人々を犠牲にするのかということも考えました。

  エルサレムでもこれと同じことが起こるということで、イエスは激しく嘆きました。私たちはそれぞれ正しいと思うことを行い、それが自分自身と誰かの役に立つことを期待しています。けれども、ヨハネの黙示録で述べられているように、なにが正しくてなにが間違っているのかをはっきりと判断できるのは、イエスただ一人です。私たちは一人ひとり、自分自身の基準に頼っていますが、私たちの自己愛が行きつく先は、自分自身と隣人に対する暴力です。むしろ私たちは、イエスが何を言い、どのように行動し、どのように感じたのかを思い返す必要があります。

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