シンポジウム 「信徒として日本社会の今を診断する」

(まとめ/文責) 柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

  イエズス会社会司牧センターと聖イグナチオ教会共催の2018年度連続セミナーは、「キリスト者として日本社会の今を診断する」というテーマで行っています。以下は、2018年5月16日のシンポジウムに登壇いただいた3名の信徒による発題のまとめです。

山岸 素子
  上智大学経済学部の出身です。大学卒業から今に至るまで、ずっと滞日外国人と難民支援に関わってきましたが、その原点となっているのは、上智大学でボネット先生をはじめとした神父さんや先生方に出会ったことです。当時、在日外国人は外国人登録時に指紋押捺をしなければならなくて、それはすごく差別的な扱いだと、ボネット先生は大学教授でありながらそれを拒否し、オーバーステイの非正規滞在者として大学にいらっしゃいました。それを支援する運動に参加するだけでなく、ボネット先生の授業やゼミの中でも、日本社会の在日コリアン、水俣、沖縄などのテーマを設けて、その現場に行って、そこの人たちに出会って、現場で感じて体験したことをゼミで深めていくという経験を4年生までずっとやりました。その時の経験が今に繋がっています。

  1990年代から2010年頃まで、多くの外国人が日本にやってきましたが、非正規滞在の人もたくさんいました。90年代、私が大学を卒業してNGOに就職した当時は、日本社会の中に労働力が不足していたので、アジア諸国から観光ビザで来て、そのままオーバーステイで働いていた時代でした。ピーク時には30万人くらいがそうやって働いていましたが、日本社会の雰囲気としても、そういう人たちをとても寛容に受け入れていた時代だったと感じています。

  一方で当然ながら、アジアから来た弱い立場の人たちが、賃金未払いにあったり、突然クビを切られたり、事故に遭っても病院に受け入れられずたらいまわしになったりという色々な人権侵害が起き、それに対応する救援活動も生まれました。

  当時、カトリック教会にもフィリピン人やラテン・アメリカの人が大勢来だした時代でした。社会司教委員会は『国籍を越えた神の国をめざして』(1993年)という司教団メッセージを発し、日本の教会の中にも、日本社会に先行して多文化・多国籍のコミュニティができていきました。

  その後、90年代の後半からはカトリック横浜教区の「滞日外国人と連帯する会」で6~7年間働きました。そこにはラテン・アメリカ、フィリピン、韓国デスクがあり、多国籍のスタッフが集っていました。私はそうした活動を通じて、多様な国籍や文化背景、民族的背景を持っている人たちと一緒に働き、集っていることの豊かさを逆に感じることができました。

  一方、日本社会の中で、外国人が日本人と同等の権利を保障されず、平等な待遇を受けていないというのも事実で、様々な人権侵害が起こっています。私が滞日外国人と連帯する会やカラカサン(移住女性のためのエンパワメントセンター)で出会った人々の多くは、国際結婚で日本に来て、暴力の被害に遭ったりして助けを求め、こういう機関に来て、日本社会で生きていくための色々な支援を受けています。こうした活動を通じても、日本人だけのコミュニティにいなかったことが、自分にとっては日本社会的な閉塞感を突破するヒントになるような経験をさせてもらっているなと感じています。

  このポジティブな感覚は、今の日本社会にあっては、すごく大切なポイントではないかと思っています。1990年代の日本社会は、オーバーステイの外国人も許容されていたような寛容な社会でした。ところが2000年代にアメリカで同時多発テロが起きたことによって、全世界的にテロとか監視とか移民排斥とかいう排外主義的な流れが高まっていく中で、日本社会全体もそのようになってきていると実感します。私のいる多国籍のコミュニティはそれを突破するような力を持っていて、それはまた、多様な人が一緒にいるコミュニティだから、日本社会が均一化を求めるようなものとは違う豊かさがあります。

  もう一つは、カトリック・ベースや、キリスト教に基づく活動であるということに、社会の中で今、閉塞的で排外主義的になっているものとは違う価値観を生み出しているものがあるのではないかと感じています。移民排斥や排外主義が高まっていて、外国人と日本人は対等ではないという状況は、25年前から改善されるどころか悪くなっているところすらあります。それをなんとかしていくためには、今回の『いのちへのまなざし【増補新版】』にもあるように、「一人ひとりの尊厳が大切にされる。神の前で一人ひとりが同じように大切なんだ。人間の尊厳と権利は平等である」というカトリックの考え方が、日本社会へのメッセージとして大切だと思います。

  日本での難民の状況は本当にひどく、ほとんど受け入れません。去年は1万9千人くらいが難民申請をし、認定されたのは20人だけ。どんな形で庇護を求めてきても、シャットアウトしているのが日本社会の現状です。そうした社会の中で、カトリックの教えを基にした発信をもっとできるのではないかと感じています。
 

柳下 修
  横浜の小さな教会にずっと通っています。普段は、栄光学園というイエズス会の中高で、理科と倫理を担当しています。中学校で来年から「道徳」という科目の教科書が配られるようになるので、8社ほどから送られてきた道徳の教科書を、どれを採択するかということで見ているのですが、中身はすごくよさそうな話であふれています。例えばマザー・テレサの話とか、個々の題材は綺麗な話がいっぱい載っているのですが、それにきっちり結論まで全部載っているんですよね、誘導的に。この話はこういうことですよね、という風に、ばっちり押し付けるところがあります。

  もう一つは、指導要領にある20数個の項目が、この項目はこの教材、この項目はこの教材という風に全部対応させてあって。しかも、「日本国民として~」という項目もあって、これは何なんだろうと・・・。山岸さんの話にもあったように、今、日本で学ぶ子どもたちの中には、日本人じゃない人もいっぱいいるのに・・・。

  うちの学校では、価値観を全部押し付けるみたいな方法ではなく、それぞれの子どもたちが考えられるようにやっていきますのでいいのですが。日本中で一定の道徳観が押し付けられちゃうと、これは大変なことだなと、教科書を見ながら改めて思っています。

  ソフトテニス(軟式テニス)部の顧問をしています。そこで出会う公立学校の若い熱心な先生方を見ていると、忙しさの中で教材研究の時間がなかなか取れず、道徳の授業をやりなさいと言われたら、多くの学校で教科書をそのまま押し付けるような授業になってしまうのではないか。しかもそれを文章で評価するという・・・それがすごく心配です。

  「時は空間に勝る」という教皇フランシスコの力強い言葉があります。『福音の喜び』には「時は空間を統御し、それを照らし、後戻りすることなく、不断の成長の連鎖へと変貌させるのです」と書かれています(223項)。我々の社会って、確かに悪くなっていくことは色々とあると思いますが、すごく長い目で見ると、いい方に向かっているんじゃないかなと。時をかけてちょっとずつ働いていけば、後戻りじゃなくて、ちゃんと成長の連鎖の中で我々は生きているのだということは、希望なんじゃないでしょうか。移民の問題にせよ、道徳教育の問題にせよ、すごく暗い大変そうに見えることはあるんですが、ゆっくり諦めずに時間をかけていくのが私たちの活動ではないかと思っています。

  まずは、せかしに乗らずゆっくりしましょう。そして、私たちは体があって、そこに心も魂もあって、なので、しっかり食べることを大事にすることが大事だと思っています。結婚して今年で30年になりますが、ずっと奥さんがお弁当を作ってくれていて、自分はお弁当で一番養われていると思っています。

  私の勤める学校では豊かな家庭の子どもたちが多いけれども、最近ですと、夕ご飯いつもひとりでコンビニで買ったもの食べている子とか、ひとりでファミレスに行って食べているという話も聞こえてきます。それじゃあねえ・・・って思いますよね。でも、それはまだ食べられているんですが、食べられない子たちがいる、という貧困の問題が確かにあって、それは何とかしなければと思います。皆が十分に食べるものがあって、ゆっくり楽しく食べられるというのが大切かなと思っています。
 

黒須 優理菜
  この4月から社会人になったばかりで、私が今の日本社会を診断することはできないので、一人の青年として、一人の信徒として、今自分自身に何ができるかなと考えました。所属はイグナチオ教会で、2年前まで5年間ほど、中高生会のリーダーをやっていました。今はリーダーを卒業して、青年の活動にちょっとずつ参加しているところです。

  今、柳下さんが食事の話をしてくださったので、まずはステラ・キッズ・カフェについて。私がここ2年くらいで立ち上げた活動で、子どもたちと一緒にご飯を作って食べるという活動をしています。その趣旨として「“こ”食」の問題があります。ひとりで独な事をしたり、皆が別に違うものをべたり、ンビニだったり、どもだけでの事だったり、冷凍の食品を温めるだけの事だったりというところが日常生活では多くあります。そうした中で、「皆で同じものを食べよう、同じ食卓を囲もう」、それこそが教会の原点で、初代教会がやったのは、皆でパンを割き、分け合い、食事をし、祈ることです。それを福音宣教の一環としてやりたいのですが、まだ方法を模索中です。

  イグナチオ教会に所属している子どもたちは裕福な家庭の子が多いイメージで、実際に有名どころのハイレベルの学校に通っているけれど、どこかに傷を負っている子も多くいます。親とうまくいっていないとか、いじめられるので学校に行けないとかの理由で、居場所を求めて教会に来る子どもがとても多いんです。私たちリーダーは、教会学校は家であり、いつでも帰ってきていい開かれた場所であるということを意識して、毎週教会学校をやっていました。

  ただそうすると、受け止めたいという気持ちは強いけれど、私も大学生で責任能力もなく、どこまで子どもたちの家庭の事情や学校のことに踏み込んでいいかわからず、それがすごく苦痛でした。担ってあげたいぶん、自分ができることが分からなくて。だからこそ、子どもだけの関わりではなく、自分たちだけで担うのではなく、教会全体として、誰かに助けを求められる状況が必要なのではと考えました。

  たぶん教会の中には、医療関係者やカウンセラーや先生方が多くいると思います。ただ、どこから頼ればいいかわからないので、すごく悩んだ時期がありました。それをマジス(教会報)に書いたら、実はこんな活動をやっているんだよ、と声をかけてくれる人が増えました。自分から助けを求めたり、声を上げたりすることはとても大切なんだと感じました。

  翌年に私はリーダーを卒業したので、リーダーOGとして大人と子どもを繋ぐことを考えた結果始めたのが、ステラ・キッズ・カフェやステラ・スタディ・ルーム――放課後、信徒会館の図書室に子どもたちが来て、勉強し一緒におやつを食べる――という活動です。

  私自身、教会に来始めたのは17歳のときでした。病気をしたり、誰かに相談したいけれど先生にも友達にも家族にも打ち明けられず相談できる人がいないな、というときに、教会に行ってみたいなと思ったのがきっかけです。教会は開かれた場所であるということは今は理解しているつもりですが、本当に困っている子どもたちに、教会は開かれているって伝わっているんだろうかと危惧しています。

  日本の多くの人は特定の宗教を持っているわけではないので、そういう子たちがどこか窓口を見つけられない限り、自分ひとりで抱え込んでしまいます。教会は開かれているということを、どうやって伝えていけばいいのかが今の課題です。宗教の関わりというのは、無理やりに推し進められるものではなく、その子どもたち(大人でも)の神様との出会い、教会との関係性というのは、それぞれその人のタイミングがあります。求めているタイミングで、きっと神様は示してくれますが、神様が示してくれるタイミングを、私たちはどう気付くことができるのでしょうか。

  私はイグナチオ教会からワールドユースデーに派遣してもらったり、「えきゅぷろ!」「カトラジ!」といった色々な団体に関わらせてもらいました。そういった活動で、常にどこかに窓口を用意しておくということが大事なんじゃないかと思います。子どもたちや、教会に行けずにどこかに助けが欲しいと思っている人たちが、ちょっと検索したら、こんなのやってるんだと気付ける場所が用意されていることが必要です。私はその恩恵に与れたから、今こうやって活動しているけれど、教会という存在を知らなければこの道はありませんでした。私は一応両親がクリスチャンなので、教会行ってみるか、となったけれど、教会を知る場所として、何かのイベントがあること、常にどこかが開かれていることが重要ではないかと思います。

  今私が一人の青年として、信徒としてできることは、呼ばれたところ、神様に示されたところに行って、実際に声を上げて生きるということです。

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