【証言】 済州四・三事件とわたしの家族

金 迅野(キム・シンヤ)
マイノリティ宣教センター共同主事
在日大韓基督教会 横須賀教会牧師

――2017年5日29日~6月3日、第4回「北東アジアの和解のためのキリスト者フォーラム」が韓国の済州島で開催されました。日本・韓国・中国・香港・台湾・米国などから約80名のキリスト者が集まり、和解に向けたエキュメニカルな学びと祈りの場が設けられました。5月31日には現地学習(巡礼)として、済州教区のカン・ウィル司教の引率のもと、海軍基地の建設反対運動を長年行っているカンジョン村や、四・三記念館を訪れました(本誌第185号も参照)。
   1948年4月3日、当時米軍支配下にあった南朝鮮の済州島で、南北の統一・独立を求める武装蜂起が起こりました。それに対して軍や警察、右翼青年団などが鎮圧・大粛清を行い、一般島民を巻き込んだ大虐殺が繰り広げられました。犠牲者が何万人にも達したと言われるこの「四・三事件」の記憶・追悼のために建てられたのが四・三記念館です。
   本稿は、四・三記念館において、「在日三世」である金迅野牧師が、父親の四・三事件の体験について語ってくれた「証言」です。 〈柳川〉

1.父について
  わたしの父は1934年に生まれました。他界して17年が経ちました。わたしは決していい息子ではありませんでした。多くの息子たちがそうであるように、若い頃わたしはよく父に反抗しました。そればかりか、一人の具体的な人間の歴史と苦悩の経験についての感覚が決定的に欠けていたために、ほんとうのところ、長い間、わたしは父の話をまじめに聞こうとはしませんでした。そのことをいまはとても後悔しています。そのようなわたしが、今日は証人になろうとしています。正確には「証人の証人」です。そんな不遜なわたしですが、生前に、時折、恥ずかしがりながら、なんとか聴かせようとした父の話を、精一杯想い起こしてみようと思います。
2.軍国少年と解放
  わたしの父は日本生まれの在日二世でした。彼が小学生の頃、朝鮮は日本に植民地にされていたので、多くの他の朝鮮人と同じく、父も「日本人」になろうとし、日本人として生きていました。自分のことを「軍国少年」だと言っていました。学校の成績はよかったようです。ある日、担任の先生が級長に推薦してくれました。父はとてもうれしかったようです。しかし、村のある有力者が、植民地の朝鮮人の子が日本の子どもの上に立つということはあってはならないと、強く反対したため、父は級長にはなれませんでした。皮肉にも、この出来事が起きて以降、父はより軍国少年の度合いを強めたそうです。それは、帝国のなかの階段を必死に駆けのぼるためでした。

  この出来事があって間もなく、日本は戦争に負けました。わたしの父もわたしの祖父も「解放」されたのです。多くの日本人がそうであったように、軍国少年だった父も、日本の敗戦に打ちのめされました。しかし、祖父は、それまで仕方なく「愛国者」のふりをしていたのでしょうか、突然、「マンセー(万歳)」と叫びながら村中を走り回りました。父はそれを見て、苦々しく、「非国民」と思ったそうです。

3.ある祈り
  解放後すぐ、1945年か46年に、父の家族は、大阪から船に乗って、彼らの故郷である済州島に戻ることになりました。不幸にも船は嵐に遭い、沈没しそうになったそうです。大人たちは荷物を海に投げ捨て、大騒ぎでした。父はとても怖かったと言っていました。その喧騒のなかに、父は異様な光景を目にします。一人の女の人が狂ったように祈っているのでした。それは彼の母、わたしの祖母でした。彼女はカトリック信者だったと聞いています。帝国のエリートを目指す少年だった父は、祖母の祈る姿を見て、「狂っている。この状況で祈るなんて、なんの役に立つのか」ととても軽蔑的な気持ちを持ったと言っていました。

  しかし、四・三事件のせいで、祖父と長男の父と次男の叔父は済州島から逃げることになりました。その結果、祖母と小さい末っ子の叔父は済州島に残されることになりました。祖父は、社会主義者としてなんらかの運動に関与したと思われます。それ以来、父が祖母に会うことはありませんでした。ある日、わたしは、このことを話す父の目に涙が浮かんでいたのを覚えています。

4.土について
  軍国少年として日本で育った父でしたが、その強い軍国志向は次第に溶けて、故郷への愛情に変わっていったと言います。済州島の土が彼を変えたのだそうです。

  「土がふつうの人の感覚を取り戻させてくれた。土は美しい草木ばかりでなく、牛や鶏や馬や犬や豚を育てる。排泄物をぶちまかれながら、黙ってそれを飲み込みながら、土はそれらを育てる。島ではすぐに友達ができた。学校に行く時、ぼくらは村を三つ越えていかなければならなかった。その間中、ぼくらは土の上でふざけあったり、土につばを吐いたり、小便をしたり、強く踏みつけたりした。それでも、土は、そんなぼくらを怒ることもなく、受け入れてくれていた。美しい花が、静かに、さりげなく咲いている姿を見て、土に頬ずりしたくなった。」

  土をめぐる父の話は、しかし、幸せなまま終わりませんでした。済州島の土は変わってしまったと言うのです。済州島の土はアスファルトで厚化粧して完全に変わってしまったと。父は1988年の東亜日報の記事を見せながら、四・三事件の犠牲者が、虐殺されたあと、済州国際空港の滑走路の一部になっているところに埋められたと教えてくれました。

  「いまでも、友達とじゃれあいながら学校に行く道で強く踏みしめた、そしてときに頬ずりしたくなった土の感触は覚えている。その土がいま、変わってしまった。だから、そのアスファルトの上に足を乗せることはしたくないと思うんだ。何かが、アスファルトの重さに、いや、何重にも積み重なった暴力の重さに喘いでいると思うから。そしてその暴力があったことがアスファルトで蓋をされて明らかにされてはいないから。このことは、あの島から遠くはなれて日本の東京で暮らしている、わたしとおまえに、とても深くかかわりのあることだ。だから、もし、故郷の済州島に行くようなことがあるとしたら、おまえは、飛行機では行くな」――これは父の遺言のような言葉でした。

5.蜂起/大虐殺/事件
  わたしの家族が日本に暮らすようになったのは、祖父と父が四・三事件に巻き込まれた(かかわった)ことに原因があります。彼らがかかわったのが、1947年3月1日のデモ(警官の発砲によりデモ隊6人が死亡)なのか、その後のゼネストなのか、1948年の四・三事件そのものなのか、もはや確かめようがありません。わたしが聞こうとしなかったこともありますが、父もあまり詳しく話そうとしなかったからです。しかし、わたしは一度、父がその場にいた事件について語ったのを覚えています。

  父は何かのデモに友達と参加していました。中学生の年齢ですが、言葉を取り戻すためにまだ小学生だったかもしれません。参加した人たちが「鳳仙花」を歌っていました。突然、銃声が鳴り、父の隣で腕を組んでいた友達が倒れました。彼の身体から流れる血が父の服にもつきました。父はすぐに家に逃げ帰りました。その夜、父は、祖父の手配した船で日本に行くことになりました。密航です。その夜の月はとてもきれいだったと父は言っていました。彼は小さな船の船室に入れられました。立てば頭が出てしまうような底の浅い船です。少しでも頭を出すと棒で殴られたと言います。その狭い船室でどのくらいを過ごしたのでしょう。排泄もその中でするしかなかったそうです。

6.夢にうなされる
  わたしは父がよく夢にうなされていたのを思い出します。そのうめき声は、ときに、離れたわたしの部屋にまで聞こえてきました。うなされながら夢からさめた後の父の顔は土色をしていました。脂汗のようなものをかいていたようにも思います。それは、長い間、わたしにとって、ただの「うめき声」にすぎないものでした。なぜ彼がうなされるのか、そこにはどのような記憶や歴史が横たわっているのか。わたしはまったく理解していませんでした。

  それが明らかになったのは、結婚したい相手がいることを告げたときでした。その報告に喜んでいた父でしたが、わたしが彼女の父親が平安道の出身だと告げると、父の顔は突然曇りました。父は、平安道の一部の青年たちが四・三事件のときに虐殺の側に回ったことを話しはじめました。そしてゆっくりと、わたしが聞こうとしてこなかったことを口にしだしたのでした。

  暴力は、人と人を分断します。家族と家族を分断します。しかし、神は、二つの家族の間の分断を和解と一致に向けてくださいました。双方の家族は、時間をかけながら、済州島から逃げてきた社会主義者の家族の経験と、朝鮮戦争の勃発とともに弾圧から逃れて越境した平安道のクリスチャンの家族の経験を、相互に受け入れました。困難はたくさんありましたが、わたしは彼女と結婚することができました。何よりも、神は、社会主義者の家族から牧師が生まれたことを、平安道出身の長老が涙を流して祝福する時間を与えてくださいました。

  わたしの家族は、しかし、まだ、いろいろな形で分断されています。四・三事件によって、日本と韓国に生き別れました。実は、日本に父と逃げてきた次男の叔父は、持病の肺の病気とリウマチを治すこと、そして意志のある者は勉強をさせてもらえると信じて、わたしが生まれた1960年に北朝鮮に「帰国」しました。父が亡くなる数年前に、叔父の死亡を淡々と知らせる手紙が北朝鮮から来ました。咸鏡北道の炭鉱の班長で終わったとのことでした。「読むか」と言って手紙を渡したときの父の複雑な顔を忘れることはできません。北にいとこや甥や姪がいるはずですが、いまは会うすべがありません。しかし、わたしは、神が、この家族の分断の亀裂を縫い合わせ、相まみえる時を備えてくださることを信じたいと思います。

7.声なき者の声
  父のうめきは、それ自体、小さな「うめき声」にすぎません。しかし、そのうめきの背後にあるものが「証言」として聴かれるまでに40年という時間がかかりました。これは、特別なケースでしょうか? わたしはそうは思いません。父のうめきは、「声なき声」・「声なき者の声」を表していないでしょうか。彼の「うめき」の他にも、聴かれることを望んでいる、証言になるのを待っている「うめき声」、「つぶやき」、「声なき声」がないでしょうか。

  すでにこの世を去られた「従軍慰安婦」のハルモニ(おばあさん)たちの「うめき声」、済州国際空港の滑走路のアスファルトの下に埋められた人々の「うめき声」。カンジョン村で取り去られてしまって消えてしまったクルンビの岩土の「うめき」。世界には、いまも、「証言」になることを待っているそのような「声なき声」が満ち満ちていないでしょうか。

  わたしは、神こそが、そのような「うめき声」、「声なき者の声」を「証言」に変えてくださると思います。わたしたちクリスチャンは、そのような「うめき声」、「声なき者の声」を聴くことの場へと招待されています。わたしは四・三事件の「証人の証人」でしかありません。「声なき者の声」を聴き逃したことのある者でもあります。しかし、わたしは、それでも、イエスにつきしたがいたいと思います。イエスこそが、そのような「声にならないうめき」を最もよく聴き、いまも聴いてくださる方だと信じるからです。そして、そのように聴く者を、声を失った者の代わりに、証人としてくださると信じるからです。

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