生野オモニハッキョの40周年

―地域での役割、コラボレーションの推移―

阿部 慶太 OFM
フランシスコ会司祭

  大阪市生野区の在日韓国朝鮮人(以下在日)のための民間識字教室「生野オモニハッキョ」(母親学校の意味、以下ハッキョ)が7月16日に40周年を迎え、記念行事が行われました。1970年代、大阪市生野区は、人口約15万人中、4万以上の在日居住地域でした。大阪市内の他の区には夜間中学が開校されていたのに、生野区にはありませんでした。そのため、1977年7月、オモニたちからの要望に地元の有志が応える形で、日本基督教団の聖和教会の礼拝堂で、日本で最初の民間による在日のための識字教室としてハッキョが開講され、現在に至っています。

  現在も、生野区の聖和社会館で、毎週2回月曜と木曜の夜7時半からハッキョが開講されています。ここで学ぶオモニたちは、太平洋戦争の前から、また、いわゆる朝鮮戦争の混乱期に日本にやってきた高齢者や結婚などで日本にやってきたニューカマーなど顔触れは様々で、最高齢は88歳のオモニです。スタッフは学生や社会人10数人が関わり、すべてボランティアです。クラスは小学校低学年のレベルから中学生レベルまであり、常時30人前後のオモニたちが各クラスで学んでいます。

  オモニたちが文字を学ぶ理由は、日本で生活するために日本語を学ぶケースや、戦争など何らかの理由で初等教育を受けることができず、日本でも就学できなかったケースなど様々です。

  オモニたちが高齢になってから努力して日本語を学び生活し、さらに、教室での学びと交流によって自分を取り戻し、韓国料理や舞踊などの文化を通じ行動範囲が広がる様子は、パウロ・フィレイの言う「文字を通じた解放」の生きたモデルとして地元に定着しています。

  さて、日本の各地にあるハッキョの先駆けとなったこの教室の40周年記念式典が、7月16日、在日本大韓民団生野西支部(以下民団西支部)において行われました。当日はNHK大阪が取材に来るなど盛況でしたが、この行事に参加し、私が関わっていた1995年から2003年のころに比べると大きな変化が生じていることを感じました。

  私が関わっていた1997年に、生野区に夜間中学が開校されました。これは、ハッキョが開講されて20年後のことでした。この時期、ハッキョから夜間中学へ進むオモニが増え、ハッキョの生徒数が一時的に減った時期がありました。しかし、最近は夜間中学からハッキョへというケースが増えたそうです。なぜなら、夜間中学には卒業がありますが、ハッキョには卒業がないため、夜間中学の卒業後の進路に、生涯学習の場としてオモニハッキョが紹介されているのです。

  また、民団など民族教育を推進する団体は、バイリンガルの在日のメンバーが数多く在籍し、オモニに日本語を教えることについては否定的意見が以前は多くありました。ですが、今回は式典の会場も民団西支部大ホールでしたし、韓国芸術院会員による韓国民謡が披露されるなど、日本に同化するという目的のためには以前は協力することのなかった人々も思想的な点を超えて、オモニたちのために行事に参加してくれるようになっています。これはスタッフの尽力や地域との交流の積み重ね、そしてオモニたちの存在が大きいといえます。このように、この10数年の間、公立の学校、民族団体などとコラボレーションの輪が広がっているのです。

  生野区という多数の在日が居住する地域の中で、地域活動と他の団体とのコラボレーションによって人々が集い交流し協力する様子は、在日外国人が多数居住する地域においても、今後モデルケースとして交流やコラボレーションについてのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

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