【新管区長インタビュー】

レンゾ デ ルカ SJ
イエズス会日本管区長

 

――ご出身はアルゼンチンですね。どんなところ?
  私が生まれたラロケという村は、アルゼンチンの中でも割合田舎の農業地帯にある、人口5千人くらいの村でした。こぢんまりとした村なので、色々な人づきあいがあり、私たちは子どもの頃から教会に行くのは当たり前みたいな感じで、生活の一部としての教会でした。まだ昔風の教会の交わりがありました。

――イエズス会の司祭を志したのはなぜ?
  ミッションスクールで育てられたということもあって、神父やシスターの姿をよく見ていました。司祭職という選択肢は、子どものときから一つの可能性としてありましたが、中高くらいに入ると、自分が神様から呼ばれているような感じがしました。色々な修道会の神父がミサや召出しについての話をしに学校に来ていたのですが、あるときたまたま来たイエズス会の神父の話を聞いて、その霊性に惹かれました。イグナチオの霊性を知りたい、霊操をしたいと思って、結果的に17歳のとき、高校を出てすぐにイエズス会に入会しました。

――どういった修練期を?
  私が住んでいたラロケのあるエントレ・リオス州には、イエズス会は教会も施設も持っていませんでした。なので、修練院と神学院がある、ブエノスアイレス州のサン・ミゲルというところに移りました。

  私たちが入会したときには軍事政権はもう終わっていて、民主主義に変わっていました。もちろん、依然行方不明の人が多かったといった問題は色々抱えていましたが。修道会に集まっている人の中にも、家族が迫害したグループに入っている人もいれば、迫害されていたグループの側の人もいました。一般社会の中の色々な傷をもっていて、敵対意識もありました。田舎の方にはゲリラや軍人が来るということがあまりなかったので、私たちはそれほど生で感じることはなかったけれど、その後色々な話を聞かされました。教皇フランシスコが修道院長や管区長だった時代のことも、後で聞くことになりました。

――日本に派遣されることが決まったときには?
  私たちは十数人志願したので、最初からそのつもりでしたし、ある意味では願いが叶えられたという気持ちでした。ただし、日本に対して何かイメージを持っていたかというとまったくなく、まるで未知の世界でした。

――1985年に来日して、はじめての日本の印象は?
  17歳で田舎から都会に出てきたときのギャップと比べれば、日本に来たときは、思ったよりも違っていないという印象を受けました。ただし、後で振り返ってみると、私たちは結局、修道院から修道院への移動ですから、どっちにしても同じイエズス会で、言葉に困れば誰かがスペイン語や英語を喋れます。そういう意味では、普通の出稼ぎ労働者や外国人客として来る人とは全然違う、恵まれた環境だったので、それほどショックを受けるということはなかったですね、正直。

――司祭に叙階されてからは?
  96年に司祭叙階を受けました。最初の赴任地は長崎でした。後に総長になったニコラス神父が管区長だったとき、長崎でキリシタン史をやり続ける人が必要だということで、すでにオリエンテーションが出ていて、神学期の最後の頃から準備をしていました。当時は結城了悟神父がまだ元気で二十六聖人記念館の館長をやっていたので、九州大学の修士課程で歴史の勉強をするチャンスも与えられました。そのうちに交代が必要になり、2004年に私が館長になりました。

――約20年間の長崎生活で印象に残っているのは?
  やはり巡礼者たちの心といいましょうか、場所の持っている力というものをよく感じました。私たちはそこに住んでいたので慣れてしまうのですが、はじめて訪れた人や時々外国からもわざわざパウロ三木たちが殉教した場所を見たいとやって来る人もいて、非常に感動するんですね。修学旅行生たち、特にミッションスクールの生徒たちが毎年たくさん来ますが、子どもたちもやはり、ルドビコ茨木などの自分と同じ年齢の子どもたちも殉教したんだということを見ると、大きなショックを受けています。

  もう一つ印象に残っているのは、20年の間に、韓国からの巡礼者が劇的に増えたということです。私が長崎に来た頃はまだほとんどいませんでしたが、少しずつ交流ができていって、今ではもう、日本人よりも韓国人の来館者の方が多いかもしれません。ですから、殉教者を通しての交流とか、信仰を中心にして日本と韓国が一致できる部分があるのではないかと思います。互いに色々な歴史があり、ライバル意識や敵対意識がある中で、やはりそれを越える力――この場合は、殉教者たちが「なに人」であるかを問わずにキリストのために命を捧げたという力――があると、自分たちの不満が小さくなっていくように感じます。それを強調することで、二つの国の一致や、もっと交流を深めるための一つの良いしるしとして与えられた恵みを生かしていく必要があるかなと思います。

――教皇フランシスコ(ベルゴリオ神父)はどんな人?
  彼は「民の信仰」、信心深い民という言葉をよく使います。神学的な考察とかはあまり知らないし、公教要理も子どものときにしか教育を受けていない、信仰の面でいえばそういった人たちがほとんどですが、その人たちこそ教会を動かしている、教会そのものだということを彼はよく言っていたんですね。

  あの時代、アルゼンチンでは教会の勉強や神学は、神父や修道会の人しかやらないようなことがあって、ある意味で差別、つまり教会のことをあまり知らない一般の人たちに口を挟まれたくないという雰囲気があったんですね。それは司教団のレベルでも修道会の中でもそうでした。ホルヘ(ベルゴリオ)神父はその中で最初から、その人たちこそ教会は何であるかという教会の姿を見せている、彼らが私たちの教えを学ぶというよりも、私たちが彼らのあり方とか信じ方に学ぶべきだ、と言っていました。

  それで私たちが哲学生・神学生だったときには、毎週どこかに、割合に貧しい人たちのところに行って、子どもたちと一緒に公教要理の勉強をやったりしていました。それによって私たちも少しずつ変化していきました。いくら良い考察を学んだとしても、一般の人たちに分かるように説明できなければ意味がないという感じに。そのためには、この人たちの願いや希望は何なのかということに耳を傾けなければいけません。決まったプログラムではないけれど、一般の民と触れるチャンスを非常に与えてくださったので、結果的に数年間のそうした接触によって、私たちは養われていきました。これはもう、最初から今でもそうで、彼が教皇として今なおとても大事にしている点です。

  同時に、やはり勉強はしっかりするようにと、結構厳しかったです。一般の労働者は一日8時間働くのだから、私たちも少なくとも8時間は勉強しないといけない、それが私たちの仕事なんだと、勉強をさぼらないようにいつも言っていました。両方のことを強調して、すごく良いバランスの取れた人だと思います。

◇参考:映画『ローマ法王になる日まで』

――日本の“新”管区長としての今後のビジョンは?
  イエズス会の管区長は、一人ひとりの会員と話して、一人ひとりの希望などを聞いてから派遣します。私はまだ始まったばかりなので、4回目のビジタチオ(現場訪問)を終えたところです。会員全体のことを聞いていないと全体を把握できないので、一人前の管区長にはなれないと、やればやるほど感じています。

  会員の高齢化の中で、また昔より外国人宣教師も日本人入会者も少なくなっているので、当然ながらどんどん会員は減っています。小さくなっていく中で、何を残すべきかということを識別する必要があります。イエズス会は学校やセンターを色々もっていて、その中で指導していますが、今の日本の教会にとって意味があって、イエズス会にしかやれない仕事とは何なのかということです。私たちが修道会としてやっていたことも、信徒に任せていいものはどんどん任せていくべきだという流れがあります。そのためにはもちろん、信徒の養成も欠かせません。

  その意味で、三本の柱があります。一つ目は神学的考察。私たちはこの日本で、より日本人のための神学を築いていくべきです。二つ目は霊性。イグナチオの霊性を指導すべきで、信徒の養成にとっても重要な要素です。そして三つ目は社会使徒職という、社会に対して訴える部分。つまりキリスト教を伝える中で、「社会の中で」やるということです。この三本の柱は、どの機関、どの分野にも当てはまります。大学の中でも教会でも、神学的考察と霊性と社会の次元が必要で、この三つの要素を取り入れていくために何をすればいいか、逆をいえば、その妨げになるものを今後はどんどん手放していくプロセスになります。

  社会司牧センターも、もちろん社会使徒職が中心ではありますが、そうした中でも願わくは神学的考察や聖書から見た社会の分析、あるいはイグナチオ的な霊性を取り入れてやっていってほしいと思います。

  以前は、召出しは「召命チーム」があるからそこに任せればいいという意識が長いことありました。今はそうではなくて、現場で人々と接する一人ひとりの会員の意識が高まらないといけません。同じように、この三つの要素が、願わくは会員たち――神学生から引退した人まで――のすべてに浸透していけばいいと思っています。非常に「日本的」なことに、それぞれの会員があまりに「専門化」しすぎてしまった中で、この三つの柱をできるだけ統合していく方向です。

【聞き手(文責): 柳川朋毅】

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