《三浦まり》 政治における対話の必要性

(文責) 柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

  以下は、当センターの2016年度連続セミナー「ラウダト・シ」第12回目として、2016年12月21日に三浦まりさん(上智大学教授)が話された内容の要約です。

***

  私は上智大学の地球環境法学科に所属していますが、専門は環境問題よりも社会保障です。ただ、社会保障も環境問題も、どうやって持続可能なシステムを作っていくのかという点では共通しています。『ラウダート・シ』の中でも「世代間正義」ということが語られていますが、世代間に公平な分配ができるシステムへの転換が私たちの大きな課題です。

人口減少(少子化)問題から考える
  上のグラフからは、日本の人口増加・減少のジェットコースターのような状況が一目瞭然です。明治維新後急激に増えていった日本の人口は、2010年がピークとなって、すでに減少期に入っています。上ってきたのと同じ角度で急直下していく推計です。

  これだけの急激な人口減少がどうして起きるのでしょうか。最大の理由は、出生率の低下です。1950年から現代までの先進国の出生率の変化を比べてみると、どの国も下がっています。その中でも、すごく減らしてしまった日本、ドイツ、イタリアのような国と、減らしてしまった後、再び増えているスウェーデン、アメリカ、フランスなどの国に分かれています。子どもを産んだり育てたりといった環境を政府が整えると、きちんと人口は回復していくのです。

  右のグラフからは、出生率が1.8を超えている国と、1.5以下の国が見て取れます。日本(青)は2005年の1.24から少しだけ上昇して、今は1.4です。

  少子化の原因は何なのでしょう。例えば、保育園の不足です。2016年のユーキャン新語・流行語大賞を受賞した「保育園落ちた 日本死ね!!!」という言葉は、あるブログでの書き込みでした。私はこのブログを読んだ時、こういった言葉を使わなければいけないほどまでに追い込まれた一人の女性の悲鳴だと受け止めました。同じくそれを悲鳴だと受け止めた国会議員の山尾志桜里さんが、国会で総理に質問をしたところ、これは匿名ブログだから、誰が書いたかわからないものに答えようがない、と総理が答え、それに怒った多くの人が、国会前でプラカードを掲げて、「保育園落ちたの私だ」と訴えました。保育園がなければ、親が働き続けられないのだという大きなメッセージです。

  待機児童の問題がここまで大きく取り上げられたのは、ブログの効果だけでなく国会で質問が起きたことが大きいでしょう。意思決定の場である国会に、こうした声を受け止める人がいたということです。

  日本は家族に対する支援や社会支出が少ない(GDPの約1.36%)ということも理由の一つです。出生率が回復した国を見てみると、3%くらい使わないと少子化対策には不十分だろうと考えられます。

  また、労働時間が非常に長いため、男の人が家事・育児負担をなかなかできないという日本の特色もあります。ワンオペ(ワン・オペレーション)育児では、第二子、第三子を産むのは無理です。男性が家事・育児をすればするほど子どもは増えます。

  さらに、日本は女性管理職がとても少ない(約1割)ということも挙げられます。ヨーロッパは3割台でアメリカは4割台、フィリピンは5割を超えています。単に女性が働き続けられるだけではなく、働くということがその人の人生設計とうまく合致する、希望の持てるような働き方改革をやっていかないと、働きながら子どもを産み育てることに繋がっていきません。

  生涯未婚率も、男性を中心に高まり傾向にあります。なぜ結婚する人が減ったのでしょうか。大きな理由は、日本の労働環境の悪化です。非正規労働や年収が低い人ほど結婚していません。その背景にあるのは、強い男性規範です。男性に家族を養うだけの賃金を稼ぐことが求められている中で、男性の賃金は下がっているので、自分の環境や年収、雇用形態では結婚できないのではと思ってしまいます。

  このように見てみると、少子化の原因と対策は明らかで、やるべきこと――保育園や家族手当を増やし、長時間労働を抑制し、女性のキャリア展望が開けるような人事制度を構築し、結婚規範について考え直し、賃金を上げる――が分かっているのにもかかわらず、むしろ間違った方法や精神論的やり方にお金を注ぎ込もうとしています。それはやはり、意思決定のところに大きな歪みがあるからです。

女性議員比率の意味するもの
  その歪みとは、国会に女性が非常に少ないということです。女性議員比率は衆議院(下院)で9.5%、世界平均は22.7%なので、その半分以下です。191か国中157位の日本は、世界の最下位グループ(10%未満の38か国ほど)の中にいます。

  1995年のデータでは、世界平均は11%、今は22%なので、20年間で倍増しました。日本は1995年に2.7%という少なさですが、その頃のイギリスは9.2%、オーストラリアは8.8%、フランスはわずか6.4%なので、今の日本よりも少なかったのです。たった20年前に、他の民主主義国では、女性議員が少ないというのは民主主義として問題ではないかと気がつきました。

  そこで他の国が何をしたかというと、「クオータ」という割当を導入し、少なくとも候補者の何割かは女性にすることを選挙制度の中に組み込みました。女性議員を「あえて」増やす努力をしたのです。今では120か国以上、世界の過半数の国でクオータを実施しています。

  女性議員比率が世界一高いのはルワンダ(63.8%)です。ルワンダの場合は少々特殊で、大虐殺という悲劇があり、男の人が大量にいなくなってしまった後に民主国家を打ち立てたので、憲法にクオータが入っています。アジアの中では、同じように悲劇的な形で内戦を乗り越えた東ティモール(38.5%)が一番高い比率です。

  日本のお手本になるのは、アジアの民主主義を圧倒的にリードしている台湾(38.1%)です。台湾には3種類のクオータが存在し、2016年に誕生した総統も女性です。日本より低いアジアの国はタイとスリランカですが、次の選挙の時に抜かれてしまうかもしれません。実際、2015年にアウンサンスーチーさんが出馬した選挙の時に、ミャンマーには抜かれてしまいました。

  女性議員が少ないとなぜ悪いのか、とよく訊かれます。多くの国では、女性議員比率が民主主義のバロメーターになっています。民主主義とは結局、正義の問題で、正義とは「何が当たり前か」ということです。ジャスティン・トルドーさんというカナダの若い首相が2015年、男女半々の内閣(パリテ内閣)を作りました。どうして男女半々なのかという記者の質問に彼は「え? だって2015年だから」と答えました。彼にとって、2015年にはパリテは当たり前(正義)だったわけです。

  女性が参政権を持つことは、100年前にはまったく当たり前ではありませんでした。今では女性参政権を疑う人はいないですね。日本ではようやく、候補者を擁立する際には男女が「均等」(野党の原案では「同数」)になるものとするという議員立法案が国会に提出されました。100年後にはおそらく、意思決定における男女の対等な参画が当たり前な時代になっていると思います。

  日本も他の先進国と同じように、税と社会保障システムを男性稼ぎ主モデル――男性が安定的雇用によって家族を養うだけの賃金を得て、女性は家計補助的な形で働く――から共働きモデルに転換していく必要があります。女性議員が増えれば、経済がより共稼ぎ型になり、子育て支援が増え、少子化問題も解決に向かっていきます。また、ジェンダーに基づく暴力・差別の解消や支援策も恩恵を受けます。

  日本がなかなか持続可能な社会になっていかないのは、やはり女性議員が少ないからです。女性議員が少ないのは、単に女性のやる気や能力、政治への興味がないという側面以上に、政治に入りたいと思ってもなかなか入れない、結果的に女性を排除してしまう色々なメカニズムがあるからです。そこにもっと関心を持ち、民主的かどうかを考える必要があります。

  クオータのような形であえて女性を増やすと、女性に下駄を履かせることになり、能力のない女性が出てくるという批判がよく出ます。けれども、女性への枠によって出やすくなると、実際にはすごく優秀な人が手をあげるようになり、また議会全体の多様性が高まり、議論が活性化されるというデータもあります。

民主主義ってなんだ?
  民主主義の前提は、社会は多様な人びとから構成されているということです。最終的に意見の対立があった時は多数決になります。ただし、少数派の人がすべての案件において少数者になって排除され、常に意見が反映されないというのであれば、それは民主的とはいえません。必ず少数の人は生まれますが、その少数派の存在にどれだけ配慮できるか、つまりその人たちの権利が守られ、決定に不服のある場合は異議申し立てできるなど、なるべく広い合意形成をしていく努力がとても重要です。

  私たちは正当かつ安定的な決定を作り出すために民主主義という制度を持っていますが、人の意見は変わるということが前提にないと合意形成はできません。利益や立場が違う人と会話することを通して、人の意見は変わりうる。そうした柔軟性に未来を託しているのが民主主義だといえます。ところが、相手は敵か味方かという友敵関係で政治を語ると、それ以上の議論は無駄で、選挙で勝った方は何をしてもいいという話になり、議会主義が空洞化してしまいます。

  民主主義は制度だけではなく、規範――書かれてはいないけれど皆が大切だ、当たり前だと思っていること――が重要です。最近は民主主義を単なる多数決だと矮小化する人や、民主主義の規範を守らない人が増えているように感じます。民主主義が無効化されかねない、とても危険な信号だと危惧しています。

「代表」とは何か
  一億人以上の人口がいる日本では、代表を選んで、その代表の人たちが国会で議論を尽くして、中には意見を変えることによって、なるべく広い合意形成をしていく、「代表制」民主主義を営んでいます。

  「代表」と聞くと、卓越した能力を持っている偉い人が賢く判断をして皆を引っ張っていくといった、リーダーや統治者のようなイメージがあると思います。ところが、代表(Representation)という言葉の語源は、「Re:リピートする+Present:現存する」です。つまり、私たちの代表者である国会議員は、国会で私たちの声を再現(代弁)してくれる人なのです。

  代表は「何か」(イデオロギー)を代表することもあれば、「誰か」(アイデンティティ)を代表することもあります。政党の人のほとんどは、党の理念といった「何か」を代表しようとしています。また、日本の選挙は基本的には選挙区制なので、居住地域の中から代表を選ぶことになります。そうすると、必ずしも地域特性とは関係のない政治的なアイデンティティ(主体性)は、選挙に反映されにくくなります。

  アイデンティティ・ポリティクスというものが近年になって非常に重要視されてきています。ただ気をつけなければいけないのは、アイデンティティというのは「あなたと私は違う」ということでもあります。アイデンティティの違いが非常に強調され、何か対立的な争点になってしまうと、どちらが勝つか負けるかといった政治闘争になりかねません。こういった不毛な、あるいは人を排除していくような政治のあり方は、民主主義と真っ向から反するものです。アイデンティティは違うかもしれないけれど手を携えることができるのだと、対話の可能性を残し、それを常に広げていくことが、今の時代においては重要になっています。

回路をつなぐ
  そういったことを私は「回路をつなぐ」といっています。代表者は本来、私たちが委託したことをやるはずが、むしろ頼んでもないことを勝手に決めて押し付けてくることも多々あります。それを防ぐためには、圧倒的に足りない双方向コミュニケーションを豊かにしていく必要があります。それはそんなに難しいことではなく、例えば選挙ボランティアに行ってみる(自分と政治的思考の近い人に出会える)とか、地元の政治家に訴える(FAXが効果的)といった小さなコミュニケーションを積み重ね、対話をもっと密にすることで、民主主義を豊かにしていくことができます。政治に尻込みしてしまっているたくさんの人たちがもっと政治に積極的に関わっていくようになれば、持続可能な社会に変えていくことができると確信しています。

Comments are closed.