光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長
2016年11月11日に、日本カトリック司教団は「地球という共通の家に暮らすすべての人へ―原子力発電の撤廃を―福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言」とのメッセージを発表しました。これは5年前、2011年11月8日の同司教団メッセージ「いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」を確認し、再出発するためのものです。
メッセージはまず、この5年半の間、私たちが事故から何を学んだかを挙げます。①地球上ではほとんど起こらない核分裂を人工的に起こして取り出す核エネルギーは、桁違いに強大である。②それを安定させる技術(放射性廃棄物処理技術)を人類はいまだ獲得していない。③ひとたび事故が起これば、市民生活が根底から破壊され、環境被害は、国境も世代も超えて広がる。④経済的発展こそが人間を幸福にするという思想が世界に魔力のように拡がっており、それが原子力発電撤廃の前に立ちふさがっている。
原爆被爆国である日本は、1955年から国策として原子力発電を推進してきましたが、その間にも数々の不幸を経験してきました。しかし、この国が歴史から学び、被爆国の責任を誠実に果たしてきたとは、残念ながら言い難いでしょう。福島第一原発事故についても、政府や東電は、被災した住民の方々の経済的・社会的・精神的な苦境、労働者の被曝などの問題に真摯に向き合ってきたでしょうか? むしろ事故の収束と廃炉、放射性廃棄物処理への見通しも立たないまま、原発事故はすでに終わったかのごとく避難指示を解除し、原発の稼働と輸出、核燃料サイクル計画を再び推進しようとしています。
福島の事故以後、原発体制が、安全性、廃棄物処理、人々の健康、平和、コスト、倫理などの面からもはや破綻しているとの認識は多くの人々に共有されているでしょう。しかし事故原因の徹底究明、および政府や東電という加害者の責任追及はあいまいにされ、これについてメディアも教育も萎縮しているようです。
折しも2015年5月、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』が公布されました。この回勅は、原子力発電の撤廃については未だ慎重な姿勢を保ちながらも、エコロジーを将来世代への責任や環境的正義という倫理問題から論じています。特に第三章では、生態系の危機は、近代以来の人間中心主義と技術主義への偏重と、知識と経済力を持つ一部の人たちの強大化する支配力に原因の一端があると指摘します。その例として、バイオテクノロジーが取り上げられますが、その論理は(あえて触れられていない)核エネルギーにもそのまま妥当するでしょう。
司教団メッセージが強く訴えるのは、原発問題についての地球規模の連帯です。事故が起これば放射能汚染はもちろん国境を超えますし、また原子力発電の技術は、ウランの採掘と精製、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処分など、すべての段階においてグローバルなシステムの上に成り立ち、国際的な安全保障問題とも切り離せません。これについてメッセージは「わたしたち日本司教団は、…まずは世界中のカトリック教会に向けて協力と連帯を求めます。それによって、宗教も民族も国家も超えた、地球規模の連帯の礎を築きたいのです」と訴えます。とりわけ韓国カトリック教会は、玄界灘を隔てて原発被害において日本と一蓮托生であることもあり、最も重要なパートナーです。
司教団メッセージは、「原子力発電の是非を将来世代をも含めたすべての人間の尊厳を守るという一点から判断しなければならない」とし、「今一度立ち止まり、人類社会の目指すべき発展とは何か、真の豊かさとは何かを問い直さなければなりません」との言葉で締めくくられます。
日本カトリック中央協議会は、このメッセージに先立ち『今こそ原発の廃止を――日本のカトリック教会の問いかけ』を刊行しました。これは、2011年の脱原発のメッセージを裏づけ、根拠づけるために編纂されました。内容は、①核開発から福島事故にいたる歴史に含まれる社会的・人間的問題、②核エネルギーと原子力発電の科学的問題点、③脱原発とキリスト教の思想という三部からなります。主眼は、原発問題を経済や政治からだけでなく、なにより福音的・倫理的な視点という、日本社会に最も欠けている観点から考えるための材料を提供することです。
原発は、やはり国家権力が牛耳る閉鎖的利益共同体の経済論理と安全保障戦略と軍需産業の癒着の産物です。そこでは、政治、経済、科学、技術、企業、軍事を握る少数特権者による国民の意思の無視、情報隠ぺい、買収・分断など、およそ民主主義とは相いれない所業が横行します。
こうした抑圧的なシステムは、イエス・キリストのいのちといつくしみの福音と相容れるものではありません。原発は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3・5)という原初の罪の反復そのものであり、その意味で信仰の問題でしょう。原罪と同じく、人間の傲慢が神を追い出し、自分がその座に着こうとするならば、人間社会を成り立たせる最後の歯止めも連鎖崩壊するでしょう。核分裂とは、そもそも結合していた原子(「アトモス(分けられないもの)」)を解体することで、すべてを壊滅させるエネルギーへと反転させることだとのことです。福島第一原発事故は、地震国日本を震源地とする、世界文明に亀裂と崩壊をもたらす出来事の始まりだとも言えるでしょう。
教皇フランシスコは、回勅『ラウダート・シ』で、人間が健やかに発展していくためには「神との和解」「人間相互の和解」「人間と被造界との和解」が必要だと述べました。核エネルギーはしかし、この三重の関係、そして私たちの自分自身との関係というアトモスを断ち切り、分解させます。こうした事態の根源は、同教皇が使徒的勧告『福音の喜び』で語った反福音的グローバル化の渦、すなわち利益追求と力への依存が結ばれた巨大軍産複合体、秘密保護法などによる言葉と思考の自由の制限、テロと治安強化、社会全体の軍事化…につながっていることでしょう。
私たちは、恐怖・威嚇・虚構の力である核エネルギーを克服して、いのちを生かす本来の力、聖霊の力を取り戻すべきでしょう。そのために、原発事故で失われた「人間」が回復されるように、被災者とともに考察を深め、情報を共有し、ネットワークをつなげていくことが必要です。そして大量の電力よりも、人間に内在する資源、人々が力を合わせてよりよい未来をつくっていこうという意志と希望を持続可能なエネルギーとする「人間」の尊厳と権利に見合った社会の仕組みを再建していかねばなりません。理論だけではなく、実際の人々の連携を図る、正義と平和協議会「平和のための脱核部会」のネットワークなどを通して、まわりの人々、また隣国の人々とも連携を深めて、脱核の声をバチカンにまで届かせたいものです。