日韓の橋になることを夢見て

―日韓社会使徒職の協働から射し込む光―

中井 淳SJ
イエズス会司祭(韓国在住)

  出発点はどこかと聞かれたら、5年前の下関、ある冬の夜と答えるだろう。時間の合間を縫って一生懸命韓国語を勉強した。韓国に行かねばならない。それは確固とした使命感だった。日本人ならば、韓国に行き、負の歴史を癒し、日韓の新しい歴史をつくっていかねばならない。元従軍「慰安婦」のハルモニたちの受けた傷の痛みが私の心の中に入ってきますように、そのように祈った時間だった。その思いは叶い、2015年に7か月の語学研修、そして2016年に再び、韓国管区の社会使徒職に加わらせてもらい、今3か月が経つ。日韓の和解を探りながら、今私が感じる呼びかけは、「日韓の協働」である。和解とは果てしない旅路だ。その旅路は、ときに互いに向き合いながらも、共に前を向いて歩んで行く道ではないか。日韓が志を一つにし、傷ついた人、傷ついた世界を癒す旅に出て行くことこそが新しい歴史なのではないか。

  拙い韓国語を通し、大海の一滴に過ぎない毎日の歩みの中で見えてきた日韓の協働から射し込む光を、読者のみなさんにわかちあえたらと思う。

巨大な海軍基地を前にして
  「カンジョンなんて、なんで行くんです?あそこに行くのは、教会の神父か尼さんだけですよ。海軍基地の前で祈るんだそうだけど、あれだけ基地の建設が進んでいて何の意味があるんですかね。」2015年9月に済州(チェジュ)島の江汀(カンジョン)村を訪れるために乗ったタクシーの運転手の言葉だ。

  これがおそらくカンジョンの平和運動が置かれている現実の一片を物語っている。チェジュ島でも、とくに直接的に被害を被らない市内の人々はさほど関心を持たないし、武力に依存しない平和ということを真剣には考えない。チェジュ島に海軍基地が建設されることの無意味さ、弊害について無知である。島民でさえもそうであるのだから、まして陸地の人間はさらに無関心、無意識なのだろう。チェジュ島の歴史は、沖縄の歴史に重なる部分が多い。本土のために犠牲にされた人々。

  2016年9月にまたカンジョン村を訪れた。すでに巨大な海軍基地の建設が終了し、あの美しかった海辺の風景の一片は、見る影もなくなってしまった。それでも、海軍基地撤去を求める活動家たちが、毎日海軍基地の前でデモを続けている。基地建設が進む中で、チェジュ教区は聖フランシスコ平和センターを建て、あくまでも基地反対の姿勢を貫くことを証しした。

  「もう基地は建ってしまった。基地反対運動なんてして何の意味があるのか。」チェジュ島を訪れた人の脳裏に必ず一度はよぎる問いだろう。曖昧模糊としたぬかるみの中で、明確な答えを見いだせない自分がいた。この巨大な悪を前に、私たちが見いだす希望は何なのか。その答えこそが、日韓協働の意味を教えてくれるに違いない。

共に夢を描くこと—「核のない平和な世界」を胸に歩く巡礼—
  9月の後半、釜山から始まる脱原発巡礼に参加した。5年前、韓国のイエズス会員2名が社会使徒職の日韓協働を模索し、下関を訪れてくれた。夢をわかちあった“あのとき”を機に下関で始まった日韓の小さな脱原発の交流が、回を重ね、日本カトリック正義と平和協議会と韓国側との共同主催という形まで発展したことは感慨深い。韓国の南端から北方まで、東海岸に沿って密集して建設されている原発群。その建設、維持への反対運動をする人たちを訪ねる旅。

  月城(ウォルソン)の脱原発テントを訪ねたときの心の苦みは今も残っている。日本側は、兵庫県篠山市の原発災害対策の実例を報告した。「住民にヨウ素安定剤を配っている自治体があるなんて。」感心しながらも、よりいっそう自身の置かれた状況のどうしようもなさに苦悶するある母親の姿は痛々しかった。子どもの健康を心配しながらも、受け入れてくれる先がないままに、村を出て行くこともできない。しかし、日本からも訪ねてきてくれた仲間がいるということに勇気を得たという。私たちは、国際的ネットワークにつながるようにと励ました。しかし、そんなことしかできなかったというやるせなさが今も残っている。実際に、私たちが韓国の痛みの最前線で苦しむ人と継続して関わっていくネットワークをどのようにつくっていくのか。

  三陟(サムチョク)での3時間の徒歩巡礼。2人の愛らしい子どもたちを連れたお父さんと肩を並べ、韓国の歌を共に歌い、心の距離がぐっと縮まる。原発廃棄物の誘致計画をくいとどめ、賛成派から命を狙われ、しばらく隠れて生活しなければならなかったという話に感銘し、胸があつくなった。サムチョク市は政府が強硬に進めようとする原発の建設に市をあげて反対しているという。巡礼の間、市長じきじきに激励と感謝のために来てくれたのには驚き、力をもらった。市の中心部には、私たち巡礼団を歓迎する横断幕までがかかっていた。

  ドイツからはるばる参加された奥道さんという女性とバスで隣席したおかげで、日本の過去、現在、未来について話をわかちあった。「あなた、夢を持たなければいけないわよ。」夢が私をここまで連れてきてくれたのは確かだ。しかし、「核のない平和な世界」というこの反原発巡礼が掲げるスローガンの実現可能生に懐疑的だった自分がいた。しかし、奥道さん、そして巡礼の歩みは、私に新しい大きな夢を描くようにと促してくれているのを感じる。「ブラント首相は当時ドイツ統一の可能性なんか誰も信じなかったときに、東西の平和という明確なビジョンを持っていたのよ。そして、現にベルリンの壁は壊れたわ。日本は原発が43基あるけれど、福島の事故で今は3基しか稼働していないわよね。原発に反対する人がいなかったらどうなっていたと思う? 私たちの力は微々たるものだとしても、決して無ではないのよ。」心に光が灯る励ましの言葉だった。私の経験もそう教えてくれる。魂のそこから湧いてくる夢ならば叶うのだ!

  巡礼をリードしてくれたヤン・ギソク神父のミサごとの説教も、私たちの一歩一歩を希望のあるものにしてくれた。教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の言葉、「私たちが悪、危険、苦しみの源と考える多くのものを、創造主に協力する働きに私たちを引き入れるための、現実における産みの苦しみの一部にする」(80)を引用し、危機のときにこそ、私たちの連帯は強まり、前線で命をかけている人たちに出会うことができるのだ、と鼓舞してくれた。他の誰かの努力を待つのではなく、私たち自らが一歩を踏み出し、出会い、連帯し、そして継続した実践がつながっていくならば、きっと。

間をつなげる橋、平和の包囲網の展開
  確か、私は一年前の9月に同じことを聞いていたのだ。しかし、歩みを通し、再びその答えを聞くとき、その真実味を皮膚感覚で体感することができる。チェジュ島のカン・ウィル司教に直接質問する機会を得た。「巨大な軍基地の前でカン司教が見いだす希望は何ですか。」「まだ軌道に乗ったとは言えない状況です。しかし、この間、沢山の人々が国内外からカンジョンを訪ね、活動家、住民たちとの出会いを通して刺激と力を得て、帰っていく姿を見てきました。今でも多くの人が訪問してくれます。小さい子どもから中高生、大人たち。韓国人だけでなく、他国から、米国、フランス、イギリスからも…。」朝鮮戦争、ベトナム戦争に参戦し、戦争の無意味さを知り、平和活動をするアメリカの退役軍人の会をはじめ、様々な人々がカンジョンを訪ね、慰めと勇気を得て帰っていくその出会いの中にこそ希望を見る、という司教の話だった。

  これこそが私たちの抱くべき平和のビジョンなのではないか。現場と現場、最前線で闘っている人々が共につながっていくこと。そこに希望がある。出会いが出会いへとつながり、平和の鎖が悪の力を包囲して行く。

  平和のネットワークをつくっていくこと。韓国の社会使徒職が力を入れ、人材を投入しているのは、移住労働者のための施設、そして脱原発の運動、軍事基地反対と、日本管区社会使徒職が力を入れるものと重なっている。このような協働の実践はすぐに実を結ぶものではないかもしれない。しかし、同じ志を持つものがそれぞれの最前線に立ちながら、交流していき、互いに鼓舞していくこと。そのネットワークを支えていく橋となっていくこと。それこそが、日本が過去の過ちをくりかえさず、新しい歴史をつくっていくということなのではなかろうか。

  10月3日は生涯忘れられない日となった。 脱原発巡礼の翌週、水曜デモ(日本大使館前で元従軍「慰安婦」への謝罪を要求する集会)で発言する機会をいただいた。日本人神父としてどうしても伝えなければと思っていた言葉。「ミアンハムニダ。」過去への謝罪の言葉。そして私たちが共に真の親友として新しい未来をつくっていきたいという思いをハルモニの前で伝えた。ハルモニが笑顔で手を握ってくださった。その握りしめた手を通して、天に約束した。

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