グローバル経済における正義の予備的考察

下川 雅嗣 SJ
上智大学教授、グローバル・コンサーン研究所所長

  本稿では、先号(第190号)の記事にもあったイエズス会の文書「グローバル経済における正義:持続可能で、誰も排除されない社会をつくるために」を熟考し、祈るための参考になるよう、私がこのテーマで日頃どんなことを考えているか分かち合ってみます。このことをより根源的に考えるためには、まず「価値の序列」について押さえたうえで、経済のグローバル化で何が起きているのかを考察する必要があると思っています。その理解を持つか否かによって、正義の促進のために何をすべきか、どこに対峙すべきかが異なると思うからです。

191  価値には、主に文化的価値、政治的価値、経済的価値の三つがあると言われていますが、この三つの価値が図のような序列になってないとおかしいということです。三つの価値の具体的な説明は図にしてあります。ここで言う「文化」は、日本の伝統文化といった狭い意味ではなく、「その社会が何を大切にしているのか」といったレベルの話で、社会的な価値観、雰囲気、思想などを指す広い意味で使っています。すなわち、共通善や人間の尊厳に直結する価値そのものを指します。これに対して、政治的価値、経済的価値とは、以下に述べるようにシステムとしての価値です。文化的価値が「人々が何を大切にしているのか」に関する事柄なのに対して、政治的価値は「(違った価値観を持った)人々が大事にしているものをどうやって社会として選び、意思決定をしていくか」というシステムに関する事柄なのです。

  そうすると文化的価値(人々が大事にしているもの)が社会としての意思決定に、できるだけうまく反映されなければ、おかしな社会というわけです。また、経済的価値も「政治によって選ばれた価値が、限りのある資源、技術、環境の中で、どうやって持続的に実現していくのか」というシステムに関する事柄です。こう考えると、図のように文化的価値が上位に位置づけられ、それがうまく政治に反映され、その方向に経済が動かされるという流れがないと、人々が大切にするものが実現できない社会になるわけです。

  しかしながら、現実にはこの価値の序列の逆転はしばしば起きます。そして、この逆転が起きると社会は非常に反福音的になり、正義が実現できなくなるようです。カール・マルクスも、産業革命後の社会における価値の序列の逆転を見抜き、経済関係が政治システムを規定し、最終的には人々の考えを規定する(下部構造が上部構造を規定する)と考えました。しかし、マルクス主義(唯物論的無神論)は、この逆転を正すべきものと考えるのではなく、逆手にとったものと言えるでしょう。

  現代の経済のグローバル化も、この観点でみると、構造的に価値の序列の逆転の傾向を、より一層強めるものと言えそうです。これは根が深い根本問題です。なぜなら、これまで少なくとも先進国においては、主権国家として、一つの国において、文化的価値が民主主義という政治システムによって、社会の意思決定に反映され、それにもとづき、その国家内の経済システムがある程度はコントロールされていたと思います。つまり、一国においては、価値の序列がある程度は機能していたのです。そのために、マルクスの予言通りには、社会革命が起こっていかなかったとも言えるでしょう。しかしながら、現代の経済のグローバル化においては、経済のところだけが突出してグローバル化しているわけです。そうすると、経済システムやその価値をコントロールする世界政府は存在しないわけですから、一国の国内政治では経済システムをコントロールできなくなるために、価値の序列の逆転が強まるということです。

  さて、ここで、経済のグローバル化の本質は何なのかを考えましょう。私は、①市場メカニズムの徹底(国内市場だけではなく各国をグローバル市場に組み込むことを含む)と②多国籍企業や超国家企業などの資本側に偏ったグローバル化にあると考えています。グローバル化する経済を否定的に表す言葉として、「新自由主義」という言葉がありますが、この「自由」とは、人ではなく企業活動、利潤追求活動の「自由」と言えるでしょう。多国籍企業等が全世界を自由に動き回り利潤を獲得できるようになってきているということです。

  少しだけ①について補足しておくと、市場は、効率性(無駄をなくす)という価値を実現するためには、とても効果的なメカニズムですが、それ以外の価値を実現する機能はありません。また、これが一番恐ろしいのですが、市場メカニズムは、自動的に、効率性にマイナスをもたらす者や組織、地域を排除していく力を持っています。

  いずれにしても、市場だけに任せてしまうと、貧富の格差は基本的に拡大する一方で、多国籍企業等の経済的な力が政治や政府そのものをコントロールするようになるわけです。さらに怖いことは、政治が経済的価値によってコントロールされるようになって価値の序列が逆転するということは、政治(政府)と経済(企業)が文化(人々)をコントロールするという傾向が強まることを意味します。この人々のコントロールの役割を果たす機能の中心が教育とマスメディアです。本来、教育は、人々の大切にしている文化的価値を発展させるため、またその大切なものをどのように政治や経済に反映させ社会に実現させるのかを学ぶための機会だと思います。しかし、もし価値の序列の逆転が起きると、人々の考えや意識を操作するために教育が使われるようになっていくわけです。マスメディアは、価値の序列の逆転によって、徐々に報道の自由は奪われ、また財界の利益を代弁する傾向が強くなり、かつ報道に携わる人たち自身の意識も経済的価値のコントロールを受けるようになってきます。このようなことは歴史上、何度も起きているのではないでしょうか。

  例えば、この10年間でいつのまにか、日本では多くの人が、自助努力や自己責任的な考え方を当然なものだと思うようになっています。本来ならば国民の最低限の生活は、国家が最終的な責任をとらなければならないのに、それが個人の責任に帰されることを国民が当然と受け入れるようにと、教育やマスコミなどを通してコントロール(意図的な場合も、無意識的な場合もある)されてきたと思います。強いられた競争と、その競争からはじかれた人が排除されることは仕方がないという雰囲気が意図的に創出されているように思うのです。それはとても危険なことで、私たちキリスト者が大切にしたい福音的な価値観(どんな人でも神から愛される大切な存在である)とは全く違うと言えます。

  また、日本のみならず、全世界、特に先進国で進行している、右傾化の流れについても、この価値の序列の逆転から考えると理解が深まります。つまり、経済のグローバル化によって、政治がグローバル経済にコントロールされることに対する、国民また国家としての危機感の表れが、右傾化、すなわち「国家の強さを求める方向」として表れているのではないでしょうか。

  価値の序列という観点から経済のグローバル化の意味を考えてきましたが、この逆転を正すためには、政治のレベルか文化のレベルがグローバル化をしない限り、グローバル化した経済を適切にコントロールすることはできません。しかしながら、全世界のこと、特に弱い立場にある国々のことを誠実に考える世界連邦が、この数十年でできるとは思えません。そうなってくると、文化のレベルがグローバルに繋がることによって、経済的価値のみの行き過ぎに少しでも歯止めをかけるしかないでしょう。「人の命や尊厳が、企業の利潤よりも重要である」という価値がグローバルに意識され、その価値のもとで、経済を少しでもコントロールしていく必要があります。そのためには、現時点では、人々がいろいろなレベルでの共同性を再生し、さらに市民のレベルでの国を超えた共感(compassion)や連帯を何とかして推進していくしかないと思います。また、この共同体の再構築、そしてこの共感を深め、連帯を構築するためには、宗教(教会)の役割はとても重要なのだと思います。

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