東ティモールで非識字について思うこと

浦 善孝SJ
イエズス会東ティモール独立地区教育使徒職委員

  新しく正確なデータを持ち合わせていませんが、東ティモールの識字率は50%位だといわれています。わたしは東ティモールの学校で働き、授業を担当したり、教員・事務会計スタッフや用務・清掃・警備員の勤務を担当したりしています。また小さな大学でも教えはじめました。いろいろな人びとが「読み、書くこと」、「計算すること」に接しています。

  さまざまな場面で非識字の現実に出会います。仕事で買い物を頼みお金を渡す時、受取書にサインしてもらいます。ある日、精算した現金が合わないことがありました。彼は、「受け取った額はこれだけだ」と言い張りましたが、サインがある受取書の金額からすれば合いません。「信用できない」というと、仕事を辞めるといって出て行きました。実際は、わたしが現金を渡す時に間違った金額を渡し、彼がいった金額が正しかったとすぐに判明しました。それまで彼はサインをしてきましたが、書かれた金額は読んでおらず、言葉で話す金額を聞いていたのだと思います。

  清掃をお願いするためにある女性を雇い、仕事の予定表を書きながら説明しました。しかし毎日予定表とは異なる時間に異なる仕事をします。もう一度予定表を書きながら、仕事の説明をしました。あるきっかけで彼女は、時計を含めて「読めないんだ」ということに気付きました。先に挙げた男性の場合もこの女性の場合にも、決して「字が読めないのか?」とは尋ねませんし、彼、彼女もそういいませんから、本当に読めないかどうかはわかりません。しかし、そういうやりとりをする時、感情的になります。すなわち、人間の尊厳に関わることなのです。

  「読み、書くこと」ができるようになるという識字のプロセスには、それを取り囲むようなさまざまな学びが伴います。たとえば、同じ曜日の同じ時間に、根気よく仲間とともに教室に座ることによって、文字以外のことも会得できます。それまで知らなかった「読みたいこと、書きたいこと」を意識しはじめることができます。そしてそれは、人と人とのコミュニケーションの幅を広めます。このような現実に出会うと、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』に書かれている識字教育のことがよく理解できます。また、真の解放とはどういうことか、ということについても考えさせられます。

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↑買い物をした時「字が書けないから
この店には領収書はない」といわれました。

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