構造的暴力としての環境問題と心の平和

―回勅『ラウダート・シ』における問題認識をもとに―

吉川 まみ
上智大学講師

「環境問題」再考 ~「環境」という言葉の多義性と、問われる価値観~
  一般的にいう環境問題とは、自然環境が再生する能力を超える範囲(速度や量)で、自然を採取したり汚染したりした結果生じる自然枯渇と、自然界で分解・循環しえない化学物質をつくり出し、排出・廃棄することによる環境破壊をいいます。
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  ところが、あらためて環境問題とは何か、その本質とは何かと問われて説明を試みようとすると、意外にも多様な概念であることに気づくのではないかと思います。なぜなら、そもそも何を指して「環境」というのか。それはあいまいで日本の環境基本法という法律の中でさえ、「環境」という言葉の定義を定めていないほどです。幾つかの言語の「環境」の語源からは、“あるものが存在し、その外部にあってそれをとりまき、それに何らかの影響を与えている一定の状況にあるもの”という共通した意味が見いだせます。

  しかし、かかわりの存在として生きる私たち人間にとって、環境と呼べるのは外在して目に見える環境だけではないはずです。精神的で目に見えない内なる環境もあり、それら内外のダイナミックなかかわりあいもまた大きなリアリティを持っていますし、信仰を持つ人々にとってスピリチュアルな環境、霊的な環境はとても重要なものです。

  このように、環境という言葉は人々の考え方に左右されるものであるゆえに、環境問題をどのように捉え、その原因がどこにあるのかという問題認識にも多様な考え方が存在するのです。また、何らかの環境が“問題”であるというからには、問題のないビジョンが意識されているかということも大切な問いです。それは、持続可能な社会、共生社会、あるいは包摂社会のイメージでしょうか。もし、そのようなビジョンがあるとしたら、一体何が、誰にとっていかに問題なのか、それは現在の問題なのか、過去から持ち越した問題なのか、将来起こりうることについての問題なのか…といった具合に、環境問題という言葉は一見シンプルなようで、実は私たち個々人の考え方や価値観、その根拠を問い直さずにはおかない奥行きある次元の問題を幾重にも含んでいるようです。

『ラウダート・シ』における「構造的暴力」としての「環境問題」
  そんななかで、2015年に出された教皇フランシスコの環境問題についての社会回勅『ラウダート・シ』は、キリスト信者としての私たちが、それぞれ考える環境問題についての考え方を一つに束ねる指針を与えてくれていると思います。そして、自然を含めた被造物や被造界全体といかにかかわるべきか、自身も被造物でありながら被造界を守る使命を神託された私たち人間の責務とその普遍的な根拠と原理を示してくれています。

190_04  『ラウダート・シ』のなかで教皇フランシスコは、地球環境問題の直接的で大きな原因のひとつが、富める国や富裕層の飽くなき欲の追求、使い捨て文化を牽引する消費主義にあり、その負の影響をより大きく被るのが貧しい国や貧困層など社会的弱者なのだと繰り返し強調します。また、そのような格差社会の現実の問題を構造的に見る必要性を教えてくれています。なぜなら、さまざまな物事のかかわりを社会構造の視点から眺めると、狭い意味での自然環境の問題は、その他の多様な社会問題と密接につながっていることがわかるからでしょう。

  先進国では、大量生産・大量消費・大量廃棄型の消費主義社会の構造のなかで、自然枯渇や汚染による生態系破壊や地球温暖化などの環境問題が深刻化してきました。一方、途上国では、貧困問題・人口爆発・環境破壊のトリレンマ(三重苦)の状況を抱え、いずれかの問題に着手した時、残りの問題を助長せざるをえないという矛盾した構造を抱えています。

  そして、この先進国と途上国双方の問題構造は別個に存在するのではなく、双方の問題を相互に助長するような構造になっています。例えば、先進国を中心とする世界経済市場の熾烈な競争のなかでの経済活動は、より低コストで、より利益率を上げ、原料の自然資源や労働力としての人的資源をより有利に入手できるような場に生産拠点を持ち、生産活動を拡大するよう促します。それが何処かといえば、将来の持続可能性を慮る余裕のない貧しさに直面した途上地域であることが多いのです。つまり、関係性のなかに弱者と強者や極端な格差があるからこそ、不公正な関係、不平等な分配は容易に成立します。

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  平和学者ヨハン・ガルトゥングは、この不均衡なつながりを社会構造的に捉え、その正体を「構造的暴力」と呼びました。構造的暴力は構造のなかに組込まれて不平等な力関係として働き、生存機会の不平等として現れます。この不平等こそが格差であり、目に見えやすい格差が経済格差です。つまり構造的に見ると自然破壊の問題は、社会的公正さが欠如した資源搾取の構造であり、人権問題、世代間倫理の問題であり、社会正義と連帯の問題でもあるといえるのです。

心の危機としての「環境問題」と平和とのつながり
  構造的暴力に着目したガルトゥングは、この視点から「平和」の概念を深耕し、直接的で人為的な暴力や戦争がない状態を「消極的平和」、構造的暴力がない状態を「積極的平和」と名づけました。平和とは、単に戦いがないという事だけではなく、目に見えないつながりの健全さが重要であるということです。

  教皇フランシスコが『ラウダート・シ』のなかで繰り返すのは、まさにこの不健全な構造による問題です。しかし教皇は、途上国と先進国の間の構造的暴力を客観的に考察して、為政者や権力者の問題を指摘するだけではなく、先進国型の消費主義社会の構造と私たち自身の間にある密接なつながりも見逃してはくれません。無意識のうちに大量消費を加速させているのがほかならぬ私たちのライフスタイルなのだと厳しい指摘を繰り返します。構造的なつながりを見ていくと、自分に関係のないことは何ひとつないという事がわかるからです。そして、過度の消費を繰り返すライフスタイルの根源的な原因が、私たちの心の奥底の霊的な深い渇きであることも指摘しています。

  心の不均衡は、日常の些細なふるまいから、産業活動に至るまで、配慮に欠ける行動となって脆弱な地球をどんどん蝕んでいます。何の役に立っているかわからないような細菌や微生物も小さな生き物も、神の小さな被造物に価値のないものは何ひとつもなく、本来は被造界全体がひとつの美しい均衡のなかにそれぞれがその役割を担っているはずでした。神の小さな被造物に、地球の隅々にまで神の栄光を見いだすまなざしは、この社会のなかで虐げられ棄て去られた脆弱な人々のなかにも同じ輝きを見いだすことと表裏一体であるがゆえに、地球環境の問題は、同時にその負の影響を最も受けやすい社会的弱者との関係性の問題、そして私たち自身の内なる平和の問題でもあります。

  『ラウダート・シ』では、自己や他者や自然を傷つけあう社会を、共通善に支えられたあらゆる人々が全人的(インテグラル)な発展をとげられる社会へと変えてゆくために、「総合的(インテグラル)なエコロジー」という概念が示されています。この言葉は、私たちがともに暮らす家を大切にしつつ皆が健全であるために、自己や他者、神とのかかわりの健やかさのみでなく、自然環境とのかかわりの健やかさも不可欠であるということを意味しているようです。そして、この4つの次元の健やかさの調和を得るという意味での「エコロジカルな霊性」を育む日々の祈り、小さな環境への気遣い、そして「エコロジカルな教育」が欠かせないのだと述べられています。

  このように、環境問題とは私たち一人ひとりの心の平和の問題でもあります。「・・・自分自身と和解せずに、幸いな節欲を養い育てることのできる人はいません。戦争がないことをはるかに超えるものである平和の意味を十分に理解することなく、適切な霊性理解はありません。心の平安は、エコロジーや共通善を大切にすることと密接にかかわっています」(LS 225)。この意味で、原発問題も沖縄問題も、あらゆる社会問題の人間的な根源は同質の問題だといえるでしょう。地球の持続可能性も、アジアや日本の持続可能性も、さまざまな地域の持続可能性も、あらゆるものごとのつながりとその根源に、私たち一人ひとりの内なる調和、内なる健やかさが問い直されているのだと思います。

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