東ティモールと日本の間のひとつの歴史

村山 兵衛 SJ (神学生)

187_04  自分が働く聖イグナチオ学院の年末休暇に、同僚のティモール人神学生の誘いで、彼とポルトガル人神学生と私の3人は、東ティモール西部マリアナ県の彼の実家に2泊3日訪問しました。滞在中、彼の家族とともにポルトガル占領時代に整備された温泉療養地「マロボ」にも行くことができ、熱い湯につかることができました。また彼の妹や姪っ子たちとも楽しく遊び、いい思い出になりました。

  この温泉療養地マロボに、第二次大戦中日本軍が従軍「慰安所」を設けて少女たちを監禁し、強制労働させ、毎晩「性的奉仕」をさせていた歴史を知って愕然としたのは、それから間もなくのことでした。

  日本による真珠湾襲撃に脅威を感じた連合軍(英豪蘭)は1941年12月17日、当時中立国であったポルトガル領ティモールに上陸。これに対抗して1942年2月20日、日本軍はディリに上陸し連合軍を駆逐し、敗戦までの3年半に及ぶ恐ろしい占領時代を始めました。

  当時人口約463,000人だったティモールを占領した12,000人の日本兵は、地元有力者や西ティモール人を利用して反ポルトガル住民工作をでっちあげ、ポルトガル総督から武器引き渡しの合意を得ます。しかし1年後、連合軍に制海制空権を奪われ、空爆に見舞われるなか、彼らは飢える被占領民に脅迫、搾取、処刑、性的暴行を繰り返す泥沼の占領統治を続けることになります。4~7万人に及ぶティモール人犠牲者が報告されています。

  ポルトガルによる400年統治、インドネシアによる四半世紀の占領に勝るとも劣らぬこの3年半の日本軍占領時代。その最大の悲劇は、確認されているだけで21か所にわたる従軍「慰安所」、すなわち性奴隷制です。

  日本兵は地元有力者やティモール人協力者を脅迫し利用して、10代20代の少女や既婚女性を誘拐・連行します。彼女たちは、昼間は炎天下の屋外で肉体労働、夜は10~20人の日本兵の性の相手をさせられます。まだ生理も迎えていない少女さえ、仕切りのない部屋で他の少女たちを見ながら、立つことも歩くこともできなくなるほど日本兵の相手をさせられました。

  「昼は道路建設、夜は兵士の相手という労働は動物以下でした、なぜって動物なら夜は眠れるから」という証言が残っています。夫や兄弟を目の前で処刑され、両親から見捨てられ、運よく生き残っても日本兵の子どもを身ごもり、再婚の機会に恵まれず生涯周囲の目を恐れて沈黙を強いられる――こうした記憶は戦争が去っても消えはしません。

  今から70年以上前のマロボで、自分の祖父にあたる世代の日本人が何をしたか、思い返すだけで全身の血が引いて寒気を覚えます。東ティモールの生徒たちが依然として質の高い教育に恵まれていないのは、このような占領の歴史のせいでもある――私は改めてこの地で自分が携わる教職の重みを感じました。

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