エコロジーについての新回勅 『ラウダート・シ』 概観

(文責) 柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

創造と私たち
  教皇フランシスコが昨年5月に発布した回勅『ラウダート・シ』は、エコロジーについての回勅です。邦訳は未出版ですが、現在邦訳作業に携わっているイエズス会の瀬本正之神父が、『ラウダート・シ』の概説をしてくださいました。

  以下は、当センターの2015年度連続セミナー「第二バチカン公会議と《今》」の第13回目として、2016年1月20日に瀬本神父が話された内容の要約です。

『ラウダート・シ』というタイトルと序文
  神様がこの宇宙を、世界を、地球を、自然を、そして私たち人類をお造りくださった「創造の御業」というものを大切に考え直さなければならない時代が来ています。これまでの教皇も、たとえば元日の「世界平和の日メッセージ」の中で環境問題に言及されたことはありますが、環境問題に対するカトリック教会としての責任を回勅全体で述べたのはこれが初めてです。

  「ラウダート・シ」というタイトルは「あなたは称えられますように」という意味の古いイタリア語で、アシジの聖フランシスコの「太陽の賛歌」から取られているそうです。環境問題に取り組むすべての人の守護聖人である聖フランシスコの祈りの言葉から始まるこの回勅は、序文の中で、次の4つのことを確認します。

  無関心でいられるものはこの世に何一つありません(3~6項)。私たちは信仰者として、この世のことに無関心でいてもいい、あるいは無関心でいた方が安らかに信仰生活を送れると思い込んでいる節がありますが、教皇フランシスコは、この世で無関心でいていいことは何もないと改めて強調します。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』の雰囲気の中で、聖ヨハネ23世以降の歴代教皇の文書が引用されます。

  関心事をともにして(7~9項)。カトリック以外のキリスト教諸教派や他の諸宗教の中にも、環境問題が重要だと認めている人が多くいます。また哲学者や科学者、エコロジー運動を先導している人々も、環境への取り組みが重要だと声高に叫んでいます。教会が環境問題に力を入れるのは、カトリック以外の人々にも同じような響き合いができる発言や行動があるからです。特に尊敬する仲間として正教会のバルトロメオ世界総主教の名を挙げ、彼の演説からも引用します。

  アシジの聖フランシスコ(10~12項)。教皇が就任時に名前をいただいたアシジの聖フランシスコは、この回勅でも一番の根本に据えられています。

  わたしの訴え(13~16項)。環境問題への取り組みは、人類全体に関係する緊急の課題であり、誰もその責任から逃れられないと指摘します。そのためにも、すべての人を対話の席に着かせたいと訴えます。

第1章 わたしたちの家で起こっていること
  第1章には科学的なこと、特に自然科学的なことが書かれているので、読みにくいと感じる人もいるかもしれません。私たちの家=地球で起こっていること、起こりつつあることとして具体的、代表的な環境問題をいくつか取り上げながら、かなり突っ込んだ議論がなされています。環境問題に関する科学的成果を踏まえ、気候変動、水問題、生物多様性の減少などに言及し、北が南に返済すべき「エコロジカルな負債」を指摘しています。

  18項では、rapidification《英》という造語が使われています。私たちは目に見える形でも、心の中でも、様々なものから急かされて生活しています。新幹線やリニアが出来てどんどん速くなるのは、いい面がある一方で、時間に追い立てられているようにも感じます。急ぐあまり、人間性が縮小させられてしまうのです。

  西暦2000年頃に、第三千年紀を迎えるにあたり、発展途上国の国際的な「負債」を帳消しにしましょうという運動がありました。当時いわれた国際的な「負債」とは、発展途上の国々が既に発展した(あるいは発展しすぎた)先進諸国からお金を借りていたことでした。けれどもそれとは逆に、北側(先進国)が南側(発展途上国)から、自然環境や天然資源、あらゆる善いものを借りて、いわゆる豊かな生活を作り上げ、維持し、ますます豊かにしようとしているというのがエコロジカルな負債という考え方です。北側は発展途上国からずっと借りてきた「負債」があるのだということをきちんと認め、返さなくてはいけません。

第2章 創造の福音
  聖書やユダヤ・キリスト教的伝統に照らしつつ、自然への人類の責任、あらゆる被造物間の密接な相互関係、共有財としての自然環境について考察しています。神様が造ってくださったあらゆる被造物(人間だけではなく)の間には、密接な相互関係が存在します。自然環境というのは共有財で、人類皆が一緒に享受し、利用させていただくものです。

  聖書や信仰の伝統をわざわざ環境問題に結び付けて話すことはふさわしくないと思う人たちもいるかもしれません。けれどもそうした人たちに対して、創造の福音といわれるキリスト教の信仰の光に照らすと、自然との関わりは信仰生活そのものの中に含まれる課題として受け止められて当然であり、それゆえ環境問題についての取り組みは、信仰と結び付けることによってかえって一貫性が増すのだといわれます。

第3章 エコロジー危機の人間的根源
  1960年代に、ある歴史学者が『生態学的危機の歴史的根源』という論文を公にしました。キリスト教こそが環境問題を生じさせ、悪化させた元凶だという内容で、かなり刺激的でした。第3章には、そのことを踏まえたタイトルがつけられています。

  その歴史学者は、アシジの聖フランシスコからはとてもいい伝統が読み取れるのに、キリスト教の亜流とされてしまい、それが活かされてこなかったと、教会に反省を促しました。

  教皇は、こうした学問の世界からの訴えも受け止めながら、エコロジー危機の根源を、技術至上主義や極端な人間中心主義に同定し、人格的尊厳を損なう実践的相対主義に警鐘を鳴らしています。

  技術至上主義(technocracy)という言葉が何度も出てきます。技術が支配原理になるということです。今の時代、私たちは技術を中核にしたイデオロギーの中に生きさせられています。技術そのものが悪いわけではありませんが、技術の持っている支配力はとても大きいので、人間の権力と容易に繋がってしまい、権力を持っている人が、技術の力を使ってますます権力の座に居座り続けるということが起こります。エコロジー危機は技術至上主義と深く関連しているのです。

第4章 全人的エコロジー
  環境問題と緊密に結び付いた「人間的・社会的側面を明確に含むインテグラルなエコロジー」が提示されます。

  何度も出るintegralという言葉は、近・現代のカトリック思想が大事にしてきたキーワードの一つで、簡単にいうと「まるごと」ということです。神様に捧げものをするときに、この部分は取っておきますというのは失礼ですから、全部を捧げます。旧約時代にも、動物をいけにえにするときには、傷のない、欠けているところのないものが用いられました。

  インテグラルなエコロジーというのは、人間に関わるあらゆることを含んでいるということです。人間であることの全面的な受諾ともいえます。教会のいうエコロジーとはインテグラルなもので、自然との関わりだけでなく、人間同士の関わりも神様との関わりも全部含んでいます。人間性の一部でしかない単なる生物世界だけの話ではなく、人間の持っているあらゆる側面をエコロジーという言葉に含めましょうという意味なので、全人的エコロジーと訳したいと思います。

  わたしたちの後に続く人々、また今成長しつつある子どもたちのために、わたしたちは一体どのような世界を残していきたいのでしょうか。この質問は、ただ環境に関してのみ問われているのではありません。何のためにわたしたちはこの世に生まれてきたのだろうか。また、何のために働き、苦労するのだろうか。なぜこの世界はわたしたちを必要としているのか。これらの根本的な問いかけ無しには、わたしたちの環境問題への関心は有意義な結果をもたらすことはないでしょう。 (『ラウダート・シ』160項)

  私たちは何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか。家族のためとか、好きな人のためとか、誰かのために生まれてきたということができたら、人間は基本的に幸せです。けれどもここで大切なことは、この世界、地球は私たちから何かを要求している、何かを求めているのではないかということです。

  第二バチカン公会議以降、カトリック教会は自らを、歴史の終わり、最後の完成の日に至るまで旅をする神の民として定義しました(『教会憲章』参照)。完成に向かって歩む救いの歴史は、私たち一人ひとりから何かを求めています。

  もう一歩進んで、この地球や自然界、この世界が私たち人間に何かを求めているのではないか、地球上で人間は何をする使命を帯びているのだろうか、という問いを意識することが重要です。この地球を健やかに保ち、次の世代に健やかな状態で受け渡し、彼らも地球を大事にしていくことができるようになるために、私は何をする必要があるのかという問いを、私は何のために生まれてきたのかという問いと密接に繋がる深さで問い直すことが求められています。

  このことは回勅には書かれていませんが、おそらくそう遠くない将来、人類が地球以外の星に住む場所を造る時代が来るでしょう。けれども、地球を荒廃させたままで、資源や生息環境を別のところに求めて出ていくというのではなく、地球から出ていく前に、地球上で一緒に過ごす被造物、人間だけではなくあらゆる多様な生物種と平和に暮らすすべを身に付けてからでなければならないでしょう。

第5章 いくつかの方向性と行動
  社会、経済、政治のあらゆるレベルにおける誠実で透明性ある対話を提案し、責任ある良心に基づいていないプロジェクトは実効性がないと指摘されます。

  対話というのは、相手を非難する言葉を無責任に吐くということとは違います。誠実な心をもって、自分が本当だと思っていることを述べ、相手が同じように語るのを聞くことです。その分かち合いの中に聖霊が働き、お互いに変えられていきます。聖霊が働いて他の人の言葉が響き、私の心を動かして、自分の考えを広げてくれたり、修正してくれたりするのです。

  第5章ではいろいろなポイントの提言がなされます。国際的なレベルのことも、個人レベルのこともありますが、たとえば消費生活で、必要な時にボイコットをするのは、市民の責任ある行動の一つだといいます。何でもかんでも買わなくちゃいけないと思い込んでいる私たち消費者は、あそこの会社が作ったこれは、ここがおかしいので買わないようにしようというボイコット運動ができるのです。教皇フランシスコはとても具体的に話されます。

第6章 エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性
  聖ヨハネ・パウロ2世が呼びかけた「エコロジカルな回心」を受けて、エコロジカルな回心に資する(良き習慣を形成し維持し発展させる)教育の必要性と、教会の霊的伝統に潜むエコロジカルな霊性の重要性を強調しています。

  霊性とはいっても、エコロジカルではない霊性があるのかもしれません。私たちの祈りの生活が、エコロジーと全く関係なく深められてきたのであれば、考えを改めて、霊性の「グリーン化」を図る必要があるでしょう。霊性がこの世の生活から遠ざかる方向で深められることが全くないとはいえませんが、全般的に霊性というのは、この世で生きる生き方のことです。この世で無関心でいていいことは一つもないと回勅でいわれるように、エコロジカルな霊性、つまり大地とか地球とか呼ばれるものを、私たちの信仰生活の大切な部分に据えることが求められているのです。

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