「正義と平和」東京大会と韓国カトリック脱核グループの福島訪問

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

「正義と平和」全国集会
  9月21日(月)から23日(水)まで、第39回日本カトリック「正義と平和」全国集会2015東京大会が「戦後70年の今こそ、地上に平和を―痛みを知る神とともに―」とのテーマで開催されました。今大会には、韓国「正義と平和委員会」担当のユ・フンシク司教(テジョン教区)をはじめ、脱原発の運動に関わる司祭、修道女、信徒ら20数人もゲストとして参加しました。

  初日は、東京カテドラル関口教会での開会式に引き続き、上智大学の中野晃一教授が「東アジアにおける平和と社会正義のために今」という基調講演をされました。すぐ前の週に国会で安全保障法案が乱暴に可決されたこともあり、600名以上の聴衆は、政治学を専門とする教授の鋭い分析に熱心に耳を傾けました。中野教授は、まず冷戦後に少数者が富と権力を独占する寡頭支配の体制が世界規模で広がった「グローバル化」の状況について話されました。そこにはしかし、逆接的に「ナショナリズム」の動きが連動し、日本では1990年代後半から「慰安婦」記述が教科書から削除されるなど、「歴史修正主義」が浸透しました。8月に発表された安倍首相による戦後70年談話もその流れのうちにあります。中野教授は、今回の談話が20年前の「村山談話」と決定的に異なるのは、語りかける相手がアジア諸国ではなく米国政府に向けられていることだ、と指摘されました。この談話に自らの歴史への根本的反省がないのは、米国の戦争への参加という究極の対米従属を結論とするからです。

  ご自身、安保関連法に反対する学生の運動でスピーチするなど、若者たちの勇気を賞賛される中野教授は、これらの学生の中心メンバーにキリスト教系学校出身者が多いことに触れ、全国であらゆる層の人々を巻き込み大きなうねりとなった現政権への批判運動は、個人の尊厳や生命を守るという点において教会の目的と一致し、その点から市民と教会は連携しうると述べました。

分科会
  22日は、4カ所に分かれて分科会で活発な議論がなされました。自死、海外援助、HIV/AIDS、部落差別やハンセン病への差別、憲法、原発、貧困、外国人・民族問題、沖縄、戦争、性暴力など多岐のテーマに及び、映画上映や諸展示参加者を含め、参加者は3日間で延べ2170人に上りました。

  私は、正義と平和協議会「平和のための脱核部会」長を担当しているので、「東アジアにおけるカトリック教会の脱原発の連帯を考える」分科会に参加しました。ひとたび一方の原発が事故を起こせば、双方の影響が不可避である日韓両国にとって、脱原発運動の連帯はとても重要な問題でしょう。

  この分科会には、70名を越える人々が参加しました。午前中は日本の状況について、まず、たんぽぽ舎という市民団体で原発問題をずっと注視してこられた柳田真さんによる「日本における脱・反原発運動の現状と今後」というお話がありました。次に、ご自身原発事故の被災者であり、その経験から、事故を起こした東電関係者の責任を問う裁判にも関わっておられる武藤類子さんの「福島 今―原発事故 終わらない―」との講演を聞きました。

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↑柳田さんの話に耳を傾ける分科会参加者

  午後は韓国の脱核(脱原発)の活動の現況について、カトリック教会の各団体を束ねる「創造保全連帯」担当の司祭、男女修道会代表、また釜山近郊のコリ原発とミリャンの送電塔建設問題、サムチョク市で原発誘致反対運動に参加する市民らの発表を聞きました。一人の女性は、娘から「脱原発運動なんてやっても無駄だし、負けてみじめな思いをするだけだ」と言われていたけれど、福島原発事故以後、その娘も行動に参加するようになったと話していました。

  世界を見渡せば、脱原発をテーマに挙げるカトリック教会は、ヨーロッパの一部と韓国、日本くらいです。環境・エネルギー問題を扱った新しい回勅『ラウダート・シ』でも、核エネルギーへの言及は微かにありましたが、「脱原発」の語はとうとう語られませんでした。バチカンにこの問題について語らせるのは、日本とその近隣教会の責務でしょう。今後の近隣教会相互の連帯が期待されます。

  最終日の23日には、『現代世界憲章』発布50周年を記念するシンポジウムが開かれ、日本カトリック正義と平和協議会会長の勝谷太治司教(札幌教区)、カリタスジャパン責任司教の菊地功司教(新潟教区)、また日本カトリック難民移住移動者委員会の松浦悟郎司教(名古屋教区)という社会司教委員会のメンバーが話しました。

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↑韓国カトリック脱核訪問団(東京カテドラルにて)

代々木公園・福島へ
  「平和のための脱核ネットワーク」の人々と韓国からの脱核訪問団は、カテドラルでの派遣ミサがすむと、代々木公園で行われた「さようなら原発 さようなら戦争 全国集会」に向かいました。韓国からの人々は、ここで全員が登壇。釜山からのキム・ジュナン神父が代表として、脱原発の運動には国際連帯が不可欠だとスピーチし、韓国で集めた署名の束を主催者の鎌田慧氏に手渡し、場内は盛んな拍手に包まれました。

185_11 ↑代々木公園でのアピール

  この後、日韓40数名の「脱核」グループは、バスで福島現地学習の途に。いわき市に宿泊し、24日は早朝旅立ち、飯舘村から南相馬市、まだ居住制限の続く浪江町から福島第一原発の脇を通っていわきに帰るという長丁場でした。

  飯舘村では避難生活中の村民の方にガイドしていただき、除染の状況、またその廃棄物が詰まったフレコンバッグの山に驚きました。南相馬ではカトリック原町教会と同慶寺で、信者の方々や住職からお話をうかがいました。住民の方々は、放射能について語ることも難しいそうであり、そのような人々の心の葛藤に思いをいたしました。

  さらに一行は、いまだ放射線量が高い浪江町へ。モニタリング・ポストが「毎時1.8マイクロシーベルト」を表示しているその足元で、手持ちの計測器では毎時7マイクロシーベルトが検出されるなど、「ホットスポット」の実在を体験しました。

  また福島第一原発に程近い浪江町・請戸地区へ。ここは、津波被害の生存者がまだ残っていたにもかかわらず、原発事故による退避命令により救助作業を中止せざるをえなくなった場所です。その津波来襲の時から文字通り時計が止まっている小学校の光景には驚きました。瓦礫は片づけられてはいるものの、なにもない荒野のただ中に、さまざまな記憶を飲み込んだまま立ち続ける小学校の二階教室には、児童書の本棚やオルガンがそのまま残っていました…。

  25日は、午前中、いわき市の宿舎で地元の市議会議員と労働組合の方から原発労働者の問題についてお話をうかがいました。午後、ちょうど韓国のお盆にあたる祝い日(チュソク)のために急ぎ帰国する人々に成田空港で別れを告げ、東京に帰ってきました。元気と好奇心旺盛な人々は夕方、ちょうど金曜日で、国会前で行われている反原発行動にも参加しました。

  こうして原発の問題について、実にさまざまな視点から豊かな学びの時間をもつことができました。なにより、一週間近く時間と体験を共有した参加者には、たしかな友情が芽生えました。9月初旬、チェジュ島で開催されたイエズス会社会使徒職交流会に引き続き、今回また、韓国イエズス会員と協働者たちと一緒に行動できました。こうした交わりを通して、福音に従う者として、さまざまな溝や壁を越えて新しい世界に歩み出す経験を共にしたことがなによりの恵みでした。

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