対立から深い連帯へ ~『現代世界憲章』序文~

ビセンテ ボネット SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

  第二バチカン公会議が開かれた1962年に、私はすでに日本に来ていました。当時、インターネットはなく、日本のマスコミはバチカンについてあまり詳しくなかったので、公会議に関するニュースは非常に少なかったのです。しかし、教会内で公会議の公文書が割合に早く日本語に訳され、私が神学を勉強するときには、その公文書がひとつの中心になっていました。
  さて、麹町聖イグナチオ教会イエズス会社会司牧センターの共催で毎年行われる、連続セミナー「社会問題とカトリック教会の考え」の今年度のテーマは、「第二バチカン公会議と《今》」です。公会議の最後の文書である『現代世界憲章』が、その中心となっています。

何故対立が起こったのか
  教会と世界の関係に対する公会議のインパクト、その意義がどれほどのものであったかをもっと明らかにするためには、それ以前の歴史における、教会と諸国家、諸宗教、そして当時の文化との関係を思い起こす必要があります。
  イエスが殺された後、ローマ帝国における初代教会のキリスト者は、非常に厳しく迫害されました。歴代の皇帝によるそれぞれ数年にわたる迫害は10回もあり、殺された人々は数えきれません。その後、313年に、コンタンティヌス皇帝自身がキリスト教の洗礼を受け、迫害が終わりました。そして逆に、キリスト教はローマ帝国の宗教として公認されました。
183_01  迫害が終わったこと自体は喜ばしいことでしたが、だんだんと教会、とりわけ教皇が大きな権力を握るようになり、絶対権威を主張することによって、教会の暗い影の歴史に至りました。ローマ教皇領(中部イタリア)、教皇軍、十字軍、ユダヤ教・イスラム教・その他の異教徒に対する迫害、宗教裁判、教皇が中南米を征服する権威をスペインとポルトガルに与えたという実態などは、教会の暗い歴史、キリスト教的とはいえない時代の証拠でしょう。
  その間、絶対権威を主張する教皇と、様々な国の権力者との政治的な対立、カトリック以外の諸宗教との対立だけではなく、当時の文化的な動きに対して、特に人間の権利にかかわる対立が起きてしまいました。
  教会は16世紀から、先住民に対する不正、奴隷制度と人身売買などを告発して、その人々の権利を主張し続けました。不思議なことに、それにもかかわらず、18世紀の終わりごろから20世紀の初めまで、教皇たちは政治や文化、宗教などにかかわる市民的権利に反対しました。教皇ピオ6世は、フランスの「人権宣言」(1789年)による権利を、非常識で道理に合わないもの、人間の自由を制限した神にも反するものであると断言しました(小勅書『クオヅ・アリクアントゥム』、1791年)。また、教皇グレゴリウス16世は、良心や出版の自由などを批判しました(回勅『ミラリ・ヴォス』、1832年)。そして教皇ピオ9世は、普通選挙権、宗教・思想と出版の自由を非難しました(公文書『シラブス』、1864年)。
  もうひとつ不思議なことがあります。1891年に教皇レオ13世は、第1の社会教説と呼ばれる回勅『レールム・ノヴァールム(労働者の境遇)』を発表して、当時の労働者の非人間的な労働条件を告発し、彼らの権利を宣言しました。しかし同教皇は、思想・出版・教育・宗教などの自由を求め、それを主張することは、不道徳なことであると断言していたのです(回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』、1888年)。
  こうした矛盾めいたことを何とか理解するためには、次の事柄を念頭に置く必要があるでしょう。

社会的権利と市民的権利に関する教会のあり方の違い
  国々が国民の健康への権利を認めるようになる何世紀も前の14・15世紀にも、教会の慈愛、チャリティーの業によって、ヨーロッパのすべての都市と大きな町には、病院網が広がっていました。13世紀にはすでに、教会によって運営されていたハンセン病患者のための施設は、2万もあったと記録されています。教育に関しても、同じようなことがいえます。前述のように、先住民の所有権、労働者の権利などについても、最初に公に声をあげたのは教会でした。すなわち経済的、社会的と呼ばれる権利について、教会が、慈愛の精神をもって先駆的な役割を果たしたことは明らかです。
  しかし、フランス革命による「人権宣言」に伴って、教会批判、教会に対する迫害ともいえる動きがありました。たとえば、宗教の自由の権利、そして私有財産への権利を宣言したフランス国民公会は、カトリック教会のすべての財産を国有にし、あらゆる修道会を禁止しました。ちなみに、「人および市民の権利宣言」における「人(Homme)」、「市民(Cytoyen)」は男性のみを指し、女性の権利はまったく認められていませんでした。
  以上のような状況から、フランス人権宣言に対する当時の教皇たちの警戒を、ある程度まで理解できるかと思います。

対立から対話への第一歩
  1870年、イタリア統一の過程で、ローマ教皇領が占領されました。これで教皇領だけではなく、教会(教皇)の政治にかかわる権力は終わったといえるでしょう。
  余談になりますが、このような歴史の流れを念頭に置いて初めて「政教分離」という言葉の正確な意味、その意義が明らかになると思います。1929年に、ラテラン条約をもってバチカン独立国家が認められるようになりますが、同時に教会には、それぞれの国の政治的な決定権に対する権威がなくなったことで、政治と宗教の分離が実現されるようになりました。
  宗教にかかわる対立については、1869年に、教皇ピオ9世がプロテスタント諸教会、聖公会と東方教会に呼びかけて、キリスト教諸教会の一致を勧めました。しかし当時のカトリック教会の態度は、まだ同じレベルで宗教間の対話を進めるのではなく、あくまでも、カトリック教会に「もどる」ようにという呼びかけであったといえるでしょう。
  人権にかかわる対立についての変化を示したのは、教皇ピオ11世が1937年にドイツ語で発表した、ナチズムに対する回勅でした。そこで教皇は、人間には神から与えられた権利があって、その権利を否定、あるいは廃止しようとするあらゆる権力から守るべきであると主張しました。また、その5日後に、無神論的な共産主義に対する回勅において、人間の具体的な権利、生きる権利、生きるために必要なものへの権利、集合する権利や私有財産への権利などに言及しました。
  そして、教皇ピオ12世は、1942年のクリスマスメッセージにおいて、人権宣言の試案になりうるほどの、具体的な人権の一覧表のようなものを提供しました。しかし、その6年後に国連で採決された「世界人権宣言」については、何もコメントしませんでした。

第二バチカン公会議
183_02  1958年10月に教皇ヨハネ23世が選出されたとき、彼は76歳でした。そのため、在任期間は短いだろうし、あまり大きな影響はないだろうと思われていました。確かに彼の在任期間は5年足らずでしたが、選ばれた3か月後に公会議を開くことを発表して、教会全体を驚かせました。
  第二バチカン公会議は、1962年10月に開会し、1965年12月に閉会しました。その3年2か月の間に、それぞれ約2か月におよぶ4会期が行われました。開会時には、全世界の司教の他に、オブザーバーとしてカトリック以外のキリスト教会の代表者と諸宗教の代表者、そして神学者、合計2,540人が参加しました。
  第二バチカン公会議では、16の公文書が採択され、教会の公のものとして教皇によって宣言されました。その最後の公文書が、『現代世界憲章』でした。183_03

『現代世界憲章』、その序文
183_04  第二バチカン公会議で採択された公文書の中で、『現代世界憲章』は一番長いものです。また、他の文書は、教会内の課題、教会全体あるいは司教、司祭や修道者、キリスト教教育、カトリック教会と他の諸宗教との関係について扱うものでしたが、『現代世界憲章』だけは全世界、すべての人々にかかわるものでした。
  約2ページしかない序文ですが、この文書全体の目的だけでなく、教会の全世界、すべての人々に対する態度がどれほど変わったかを明確にして、教会にできる人々への奉仕を素直に述べ、それを提供したいという自らの決意を宣言しています。この文書は、教会の信徒一人ひとりが、教会全体と同じような態度や決意などを身につけるようにという呼びかけでもあります。その内容は、次の3点にまとめられています。
1.教会と全人類家族との親密なきずな
  信徒の共同体である教会は、人間によって構成されて、すべての人々に救いのメッセージを伝える使命を受けているので、「人類とその歴史とに現に深く連帯して」、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」のです。
2.公会議が話しかける相手
  以上のような連帯感を実感した教会は、全人類に話しかけ、世界における教会のあり方について、どのように考えているかを明らかにしたいと宣言します。
3.人間に提供すべき奉仕
  教会は、以前のように政治的、あるいは宗教的な権力をもって人々を支配したいのではなく、すべての人、特に貧しい人々と苦しんでいる人々に奉仕したいというのです。その奉仕とは、全人類家族に対する連帯と尊敬と愛を示すため、人々が不安をもって自問していることについて、彼らと対話し、教会が福音から得ている光を、その問題の解決のために提供するということです。
教会にとってそれは、「世を裁くためではなく救うため、仕えられるためではなく仕えるためにこの世に来られたキリスト自身の業」を継続していくことであると述べています。

  今年度のセミナーでは、幸田和生司教をはじめ、多くの方々の協力を得て、『現代世界憲章』を読みながら、《今》を考えていきたいと思います。

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