教誨師としての経験

ハビエル ガラルダ SJ
麹町教会助任司祭

  長年、教誨師(きょうかいし)としてよりも、ただの友達として、府中刑務所と小菅の拘置所で悩んでいる男性の囚人たちと、仲良く付き合っています。
  彼らの中でイエスを見るよりも、行きたいイエスを連れて、イエスに連れられて喜んで行くのです。
  府中刑務所では、主にスペイン語系の約60人の活発な人に会います。月1回か2回、45分にわたって、20人程度のために、自由参加のミサをたてます。彼らの状況に合うような説教はちょっと難しいです。また、月1回、15分ずつの個人教誨の時、10人と話し合います。
  小菅の拘置所では、月1回、死刑の執行を待っている日本人と会います。個別的に、30分ずつ。今は4人が来ます。
  府中の外国人の主な悩みは、孤独です。家族から、お金のかかる手紙は遅くて少ないので、遠い国にいる両親の健康、小さい子供たちの成長、妻の忠実性などの心配は、極めて強いのです。外国にいる彼らにとって、この孤独は、非常に厳しい寒さや暑さよりも、なお一層辛い苦しみになります。
  個人面接のとき彼らがたいてい出す話題は、家族、釈放の時期、将来の仕事、悪い仲間と環境から離れるということです。神、信仰、聖書、祈り、回心についても話します。告解もします。ご聖体を拝領する人が多いです。
  普段、人とほとんど話せないので、教誨師たちと話し合って、心を開いて、笑ってから、少し元気になります。「来てくださって本当に有難う。ずっと来てください」と本気で言ってくれる人はとても多いのです。
  一方、拘置所で死刑の執行を待っている人にとって、話せる相手は私だけです。月1回、30分間。この方々は、当然、家族や釈放、将来についての話題を出しません。その反面、神、宗教、聖書、社会問題、歴史(「私たちに将来はないから」)に関しては、非常に興味があります。聖書と信仰の本を深く読んで、疑問やコメントを述べるとき、こちらが大いに考えさせられます。彼らとの個人教誨が、私にとってこそ充実したひとときになります。
  ところが、府中でも、小菅でも、友達に仲良く会っていると言っても、対等な付き合いではありません。終わりに、私は帰るが、彼らは残ります。だから、一緒に来てくださったイエスに、「彼らと一緒に残ってください」と願って、私は、人が待ってくれている自由な世界に戻ります。複雑な気持ちで。

Comments are closed.