経済のグローバル化と構造的罪

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

経済のグローバル化がもたらすもの
  近年やたらと耳にするようになった「グローバル化(Globalization)」という言葉は、私たちの耳には何かよいもののように聞こえます。上智大学には2014年の4月から総合グローバル学部が新設されましたが、その名前に惹かれて入学してくる学生の多くも、やはりグローバル化をよいものだと思っているようです。
  もちろん、グローバル化に肯定的な側面が多く存在することは事実でしょう。けれども、果たしてグローバル化は諸手を挙げて喜ぶことができるものなのでしょうか。つまりそれによって人類はますます豊かに発展し、すべての人が幸せになれるものなのでしょうか。本稿ではその問いについて、特に経済のグローバル化の観点から考えてみたいと思います。
  この記事は、当センター主催の連続セミナー「第二バチカン公会議 前~その後」の第9回目として、下川雅嗣神父(上智大学総合グローバル学部教授)が2014年10月15日に行った「構造的罪と現在の国際政治経済構造―経済のグローバル化で何がもたらされているのか?―」の内容をもとに執筆しています。

世界の貧困の現実
  最初に、驚くべきデータをお見せしましょう(本項のデータは、世界銀行のPovcalNetより引用しています。一部データのない地域もあります)。
表1:世界全体の貧困者数とその割合  現在、人類の約4割は一日2ドル以下の所得で生活しています。さらにその半分、つまり全体の約2割は一日1.25ドル以下の所得で生活しています。今、人類の5人に1人はまさに「極度の貧困」状態にあるのです。
  けれどもこの割合は、実は経済のグローバル化によってかなり「改善された」数値だと、一部の人は主張します。実際に、1987年のデータを見てみると、一日1.25ドル以下で生活している人間の割合は全体の約42%でした。それが2010年には約21%となっていますから、確かに極度の貧困状態にある人の割合は「半減した」といえるでしょう。国連の掲げたミレニアム開発目標の中には「極度の貧困者の割合を半減させる」という項目がありましたが、この目標は数値の上ではあたかも達成されたかのようです。
  ところが、この数値にはあるトリックが隠されています。割合の上では確かに数値が半減したかのように見えますが、実数でいうと、1987年には約18億人だった極度の貧困者が、2010年には約12億人になっただけです。世界の人口そのものが爆発的に増大しているので、割合としては劇的に減っているように見えても、実数としては全世界で10億人以上もの人々が、依然として極度の貧困と飢餓に苦しんでいるのです。
表2:一日所得1,25ドル以下の人口  さらに、このデータにはある国の特殊な事情が関係しています。その国とは、中国です。中国内の極貧者は、1987年には約5.9億人でしたが、2010年には約1.6億人に減っています。社会主義国である中国は2000年になるまで、グローバル化の流れに対して徹底的にNOと主張していました。けれども皮肉なことに、グローバル化に反対していた中国が近年、何よりもグローバル化の恩恵を受けて貧困者の数を著しく減らしたのです。同様のことは、インドにもあてはまります。
  先ほどの表から中国のデータを除いて考えてみると、世界の極貧者の数は1987年の約12億人から、2010年には約11億人になっただけで、ほとんど減ってはいないのです。その他の地域でも、若干の改善はみられるものの、実数としてはそこまで大きく減ってはいません。
  むしろ注目すべきは、サハラ以南のアフリカです。サハラ以南、つまりアフリカの中でも特に貧しさに苦しむ地域では逆に、1987年には約2.6億人だった極貧者が、2010年には約4.1億人にまで増えているのです。グローバル化によって世界中の貧困が減少したのではなく、中国やインドというごく一部の国の貧困が減っているだけで、地域によっては貧困者の数が増えているところもあるのです。
  さらに、一つ目の表に戻ってみましょう。今まで、一日に1.25ドル以下の所得の人々を見てきましたが、それを1日8ドル以下(今すぐ餓死をするレベルではないにせよやはり貧困に苦しむレベル)に広げて見てみると、1987年には約38億人だった貧困者が2010年には約50億人へと増えているのです。餓死に瀕する人々は実数においても多少減ったものの、貧困層は減るどころか、むしろ10億人以上増えているのです。

拡大し続ける格差
  経済のグローバル化は先ほど見たように、決して世界の貧困問題を解決できたとは思えません。それどころか、これから見るように、世界の所得格差(不平等)をますます拡大させるものなのかもしれません。
  再び、驚くべきデータから始めましょう。世界の人口のうち、最も裕福な上位5分の1が、地球上のすべての富の約83%を所有しており、反対に、最も貧しい5分の1は、わずか約1%の富を所有しているにすぎません。グラフの特徴的な形から「富のワイン(シャンパン)グラス」という名称で呼ばれます。図1:人間開発報告書2005

図1:国連開発計画の『人間開発報告書2005』より

  また、1960年のデータでは、下位20%の貧困層の平均所得と、上位20%の富裕層の平均所得とを比べると、その比率は1対30でした。ところが2007年のデータでは、それが1対83まで広がっているのです。つまり富裕層と貧困層の間の経済格差は、まるで倍々ゲームのように、ますます膨らんでいるのです。
  ジニ係数という所得分配の不平等さをはかる指標があります。ジニ係数は、最低値が0、最高値が1となっており、0というのはすなわちすべての人がまったく等しい富を得ている状態で、1というのは一人の人がすべての富を独占している状態です。グローバルなジニ係数は約0.8となりますが、これは強い社会不安が存在し、いつ暴力的な事件が起きてもおかしくない状態を意味します。
  教皇フランシスコは2013年に出した使徒的勧告『福音の喜び』の中で、こうした格差が暴力的な反応を引き起こすのであり、社会や経済のシステムから排除や格差という不正が取り除かれない限り、暴力を根絶することはできないと指摘します(59番)。経済のグローバル化がこんにちの世界にもたらしたのは人類の幸せな発展ではなく、むしろ暴力を生むような不正な排除や格差の増大だったのです。

構造的罪とその克服
  また、『福音の喜び』の中で教皇フランシスコは「排他性と格差のある経済を拒否せよ」(53番)とはっきりと言います。排他性とは、「路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で2ポイントの下落があれば大きく報道されること」であり、格差とは「飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況」のことだと説明されます。教皇のこの主張には、「構造的罪」という考えが大きく反映されています。
  「構造的罪」という概念が生まれたのは、1970年代に主に中南米で起こった、解放の神学の流れの中でした。教会の社会教説の中で初めて言及されたのは、1987年に教皇ヨハネ・パウロ二世の出した回勅『真の開発とは』の中でしょう。構造的罪とは、私たち人間が暮らしている社会の中の政治制度、経済制度の奥にある、罪の構造のことです。
  構造的罪は、原罪と言い換えることもできるでしょう。私たち人間が誰しも持っている罪へのしがらみ、エゴイスティックになるがゆえの罪への傾きのことです。罪を避けて生きようと思っていても、私たちは普通に生活しているうちで、知らずしらずに避けがたい罪を犯す可能性があります。たとえばスーパーで普段通りの買い物をしたとき、その商品がひょっとしたら不正な労働搾取によって生産されたものであるかもしれないのです。
  1987年の『真の開発とは』の中では、国家間の経済格差、つまり南北問題という言葉で表されるようなことが構造的罪として想定されていました。先進国が途上国を経済的に搾取していることが問題とされたのです。国際政治も、先進国に牛耳られていました。
  2013年の『福音の喜び』の中でも、そうした問題は意識されてはいますが、むしろさらに問題なのは、市場メカニズムに対して絶対の信頼を置きすぎることなのだといわれます。それはまるで市場至上主義ともいわんばかりの、政府の働きをなるべく小さくして、市場原理にものごとを任せるという考え方です。
  18世紀の経済学者アダム・スミスは「見えざる手」という表現を用いて、市場経済の基本原理を説明しました。それは「個々人が市場において自分の望むとおりに行動しても(あるいは行動した方が)、社会的に望ましい状態が達成される」という理論です。
  その基本原理は現代の市場経済では、新自由主義的なグローバル化と形を変え受け継がれています。けれどもそこで問題とされるのは、「社会的に望ましい状態」というのは単に「効率的」であるというだけで、それ以外のこと、つまり貧困や飢えや排除や格差に苦しむ人々の存在は無視されていることなのです。
  かつて弱者とは社会の中で抑圧され、搾取される人間でした。けれども経済のグローバル化によって効率性が過度に追求されていった結果、もはや弱者は搾取の対象ですらなく、無視され、排除される存在へと変化していったのです。このことこそが、経済のグローバル化が抱える一番の問題であり、まさに人類がいかんともしがたく捉えられている「構造的罪」なのではないでしょうか。

  望むらくは、この通信の読者の皆さんは、貧困の問題に対してある程度関心を持っている方々でしょう。その面で確かに、教皇フランシスコの言う「無関心のグローバル化」ではないかもしれません。中には実際に貧困者に対して経済的な支援や教育の援助などを熱心に行っている人もいるかもしれません。
  ところが、私たちのそうした努力とは裏腹に、現代社会では貧困や排除という問題がやむことなく生み出されています。社会が持っている不正義な構造を正しく理解し、それを変えるための取り組みを行おうと考える人はまだまだ少ないのです。
  構造的罪を克服するということはなにも、社会主義的に革命を必要とするということではありません。それはなによりも、「構造的罪は個人の罪に根ざしている」のだという理解から出発する必要があります(『真の開発とは』36番参照)。
  構造的罪を克服するためには、個人の回心と、それを促す文化のレベルの回心こそが求められます。そしてその文化とはまさに「連帯」の文化なのです(同38~40番参照)。連帯こそが、個人のレベルではどうすることもできない構造的罪に立ち向かうための、最大の武器となりうるのです(『福音の喜び』189番参照)。

Comments are closed.