【報告】正義と平和全国集会2014福岡大会

柳川 朋毅
イエズス会社会司牧センタースタッフ

  第38回目となる「日本カトリック正義と平和全国集会」が、2014年9月13~15日に福岡で開かれました。今回は「いのちを大切にする社会を目指して―見て、聞いて、知って、働く―」というテーマで、三日間を通して様々なプログラムが行われました。この大会の模様を一部ご報告いたします。
national rally

  大会一日目には、韓国の済州(チェジュ)教区よりお招きした姜禹一(カン・ウイル)司教の基調講演が行われました。姜司教はまず、セウォル号沈没事件や教皇フランシスコの訪韓といった最近の事柄に触れながら、韓国の現代社会が抱えている問題を明らかにしていきました。特に、長年国家によって抑圧され、現在も海軍基地建設問題などで揺れている済州島民の姿に大変心を痛めたこと、当初は多くの悩みや批判もあったものの、この小さき人々の声を黙殺してはいけないと決意し、教会を挙げて基地建設反対運動に取り組んでいるということなどを語られました。
woo-il  講演の中では、人類の、そして韓国の暗い歴史についてもお話しくださいました。特に私がショックを受けたのは、四・三事件という済州島で起きた島民虐殺事件や、ベトナム戦争時における韓国軍の残虐行為についての話でした。国家は本来人間のいのちを守るためにあるべきなのに、歴史を振り返ってみればその逆に、国家によって踏みにじられてきた数多くのいのちが存在しています。姜司教はその中で、「国家は絶対的価値を有している」という神話から国家を解き放ち、国家を超えた究極の価値へと目をやることが、キリスト者の預言者としての務めであると語られました。

  基調講演の後、高校生平和大使たちによるスピーチが行われました。自分たちは被爆者・戦争体験者から直接に戦争体験を聞くことができる最後の世代であるという意識のもと、戦争の悲惨さと平和の大切さを一人でも多くの人に、特に日本の若者や世界の人々にアピールしようとしている高校生たちの活動を知りました。彼らのような若者たちの姿に、多くの勇気をもらいました。

  大会二日目には、主日ミサや神言修道会のマイケル・シーゲル神父の講演会、多くの分科会・現地学習会、ネットワークミーティングが開催されました。
  シーゲル神父はミサ中の説教や講演会で、教会のかかわる社会正義について整理してお話しくださいました。旧約聖書の時代から貧しい人、やもめ、みなしご、寄留者という弱者に対する正義が説かれ、キリスト教の初代教会も「一人も貧しい人がいなかった」(使4:34)と語るほどに、弱者への配慮を欠かすことがなかった。教会の社会教説の基本は「人間(生命)の尊厳」、「主体性の尊重」、「連帯」という三本柱である。日本語の「正義」という言葉には上から押しつけられる規範というイメージが含まれているが、英語の「Justice」はjust fit「ピッタリと合う」、つまり神の望まれるその人らしい生き方を目指すというのが元々の意味である。といったお話をされました。
  「憲法9条にノーベル平和賞を」の推薦人の一人でもあるシーゲル神父は、戦争と平和についても語られました。軍拡競争はまるでアルコールなどへの依存症のように、際限なく膨らんでいきます。平和を目指すためには抑止論という恐怖の連鎖ではなく、むしろ和解による信頼関係を構築する必要があるのだと説明されました。

  全部で10以上催された分科会・現地学習会のうち、私は「キリスト者として働くこと」という分科会に参加しました。福岡の西新教会の青年たちを中心としたグループが、現代の若者たちが働くことに関して抱えている悩みを劇の形で紹介してくれました。また、信者の意識を世代別にまとめたアンケートの結果も報告され、その後いくつかの小グループに分かれて「働くこと」についての分かち合いが行われました。

  夜には、死刑問題や憲法問題などを話し合ういくつかのネットワークミーティングが開かれました。私は今回設立された「平和のための脱核部会」の集いに参加しました。脱核運動に携わっている方々のお話や福島の現状報告を聞いて、改めて原発・核兵器のない社会の実現に向けて連帯していく重要性を感じました。

  大会三日目には、今大会を締めくくる「いのちを大切にする社会とは」というテーマでシンポジウムが開かれました。福岡教区の森山信三神父の司会のもと、京都教区の大塚喜直司教と、長年福岡でホームレス支援に携わってこられた奥田知志牧師の対談形式で行われました。
  フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜び』を出発点に、教会は汚れ、傷つくことを恐れずに、もっと外へと出ていかなければいけないという共通意見からシンポジウムはスタートしました。奥田牧師は、昨今やたらと叫ばれている「自己責任論」の裏側には、自分が傷つくことを恐れる精神構造があるのだと説明します。「キズナ」を結ぶためには「キズ」つくことを避けては通れない。社会というのは「健全に傷つく仕組み」であり、一人の人の傷をみんなが分担することなのだという話をされました。
  第二バチカン公会議後、カトリック教会は確かに外へと開かれましたが、まだまだ自分が変わることを恐れ、自分は豊かなままで弱者を救おうとしています。「他人を救ったのに自分は救えない」とバカにされた十字架上のイエスのように、教会自体ももっと貧しくならなければならない、人が到底まねできないような尊敬される「アホ」にならなければならないという結論で締めくくられました。

  次回の第39回大会は、2015年9月21~23日に東京で開催されます。

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