オーストラリアでのカルチャーショック

小暮 康久 SJ

 叙階後、昨年春に上智大学での神学研究を修了し、イグナチオの霊性を勉強するためにメルボルン(オーストラリア)に来て、10ヶ月が過ぎようとしています。これまでの養成の期間にも、様々な国々-インド、韓国、フィリピン、ベトナム、マレーシアなどの他のアジアの国々や、加えていくつかのヨーロッパやラテンアメリカの国々-を訪れ、異文化を体験する機会がありました。それらの異文化体験のすべては、それぞれに気づきや視野の広がりをもたらしましたが、ここオーストラリアでも、以下に述べるような点で、固有のカルチャーショックを体験しています。
 まず、こちらで体験した中で一番印象深いことは、オーストラリア人の労働観というものです。それは彼らの休暇の取り方ということにも関係しています。一例をあげてみたいと思います。今、オーストラリアは夏季休暇の季節の真っただ中にあるのですが、彼らの多くは、クリスマスの前から1月末まで、少なくとも3週間かそれ以上の夏季休暇を取ります。オーストラリア人にとって、家族や友人などの大切な人たちと一緒にこの数週間を過ごすことはとても大切なことです。オーストラリア人にとって、休暇にはとても大切な意味、特別な価値があります。“休暇”は最優先事項です。ここでは、“休暇”という言葉には、まるで水戸黄門の印籠のような権威があります。
休暇を取ることに関しては、日本の労働者の状況とはまったau7く異なります。オーストラリア人にとって、休暇の文化は彼らの労働観を表すものです。こちらではしばしば、“人生(生活)の質quality of life”(※)という表現を耳にします。私たち日本人もこの同じ表現を使い始めてはいますが、しかし“ブラック企業”における長時間労働など、まだまだ過酷な労働条件が根強く残る日本においては、“人生(生活)の質”は、依然として理想の域に留まったものと言えるでしょう。しかし、ここオーストラリアでは、この「人生(生活)の質」という価値観は、個人の考え方やスタイルだけでなく、社会のシステムにまで、共通の価値として浸透しています。オーストラリア人はいつも、仕事と休暇の適切なバランスというものを考慮しているように見えます。“働きすぎ”はここでは決して称賛されることではありません。何故なら、それは、家族と時間を過ごすというようなもっと大切なことを犠牲にしていると見なされるからです。こちらに来て、週末になると、街のどんな小さな公園でも、どれほど多くの父親たち(もちろん母親も一緒)が子どもたちと遊んでいるのかを見るにつけ、その光景に深く考えさせられます。
 さらに、このほかにも、オーストラリア人の労働観を示すものがあります。一例をあげるならば、私はこちらに来て、オーストラリアの最低賃金が時間当たり$16 (¥1600)であるという事実を知った時は本当に衝撃を受けました。はじめは信じられませんでした。何故なら現在の日本での時間当たり最低賃金はオーストラリアの約半分の¥750で、なおかつ(非正規雇用の拡大など)さらなる賃金の削減の議論が続いているからです。
 外食産業(街中の個人経営のアジア系レストランなど)に見られるようないくつかの例外はあるにせよ、実際に、オーストラリアの労働条件は、日本やアメリカ、イギリスなどの他の先進国と比較すると相対的によいと言えます。それ故に、私が出会った友人たちも含めて、毎年、多くの留学生がこの良好な労働条件を求めてやってきます。ある留学生たちは、すでに母国で、専門の技能職や職業-例えば看護師など-に就いているにも関わらず、こちらで同じ仕事を得ようとやってきます。それは母国での労働条件との違いのためです。“人生(生活)の質”にとって、より多くの賃金を稼ぐことだけではなく、仕事と休暇のバランスも大切であることを彼らは知っているのです。この労働観がオーストラリア社会に根付いた価値であることを、この留学生たちの数が示していると言えるでしょう。
 それぞれの国は、それぞれに異なった極めて固有の条件下にありますし、浅薄に比較することは適切ではないことは十分承知の上で、それでもなお、“人生(生活)の質”という価値観が、どの国においても、人間を幸せにするものだと強く感じさせられています。

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