「独裁者」の登場と心の自由

光延 一郎

繰り返される歴史

格差と貧困が拡がれば、人間のいのちの環境が崩されます。生活が苦しくなれば、閉塞感、やり場のない不満を抱く人々も増えて、政治や社会が不安定になります。するとそこに、斬新なエネルギーをもって「改革」を断行する闘士を気取った剣呑(けんのん)な人物が現れて来るというのが歴史のお定まりです。ヒットラーの惨憺(さんたん)たる結末にも懲りず、二十一世紀の日本においてなお、大都市首長にはそういうプチ独裁者が()しています。

煽動政治家(デマゴーグ)は、複雑な政治問題を単純化して賛否が激しく対立する突飛な策を次々にぶち上げ、また確信犯的に横柄で不遜な言辞で挑発するなど、メディアの注目をさらいます。「敵」を仕立て、不当な既得権益から引きずり降ろせと激しく攻撃し、鬱憤を抱える大衆に「この人なら何か一発ガツンとやってくれるかも」と思わせて、負の感情を自らへの求心力に誘導します。

彼らの人生観は、イエスの福音とはまるで真逆、「強い者が勝つ、勝った者が正しい、弱い者は従え、従わない者は切る」でしょう。この「強者」の支配が貫徹されるなら、ハンナ・アーレントというユダヤ系の政治学者が言った通り、人間の市民的権利や法の保護は根こそぎ奪われ、その体制の構成員は保身のために上の命令の言いなりになる「アウシュヴィッツ」が現れるのは必然です。それはブラックホールのようにすべてを吸い込み、全体を傷つけ破滅に導きますが、その中心では悪魔が笑っているでしょう。

権力・支配をほしいままにしようとする強者の論理は、優勝劣敗と自己責任を主張します。現代では「グローバル化」や「新自由主義」の名の下でそれが進みます。そこで支配される者は互いに競わされ、分断され、やがてすべてが上からのトップダウンに(なら)されます。支配に楯突(たてつ)く労働組合や、市場原理がなじまない医療や福祉、自由な人格の交流を語る教育は目のかたきにされ、掲げられた数値目標でふるい分けられ処分されます。また誰もが抱く自然な愛国心と特定体制への服従をすり替えて、ナショナリズムを排除の道具に使います。新自由主義と国家主義は、その暴力的な本性が共通しているので容易に合体するのでしょう。

 

何を真に拝むべきか

こうして今や日本のあちこちで「日の丸・君が代」への起立や斉唱が教育現場で強制され問題となっています。大阪では「教育は二万%強制だ」「公務員に不起立の自由なんてない。『君が代』がいやなら公務員を辞めろ」と言う知事の下で、職員の思想調査とセットで憲法・教育基本法を露骨に踏みにじる条例化までなされます。十八世紀英国の文学者サミュエル・ジョンソンの言葉「愛国心は、卑劣漢の最後の(のが)れ場」が、またしても言い当たります。

こうした、教育内容や教員の業務内容とは無関係の「起立するかどうか」の一点で上意下達組織への忠誠をはかり不従順な者を排除する仕組みは、まさにかつて日本のカトリック教会を滅ぼした「踏絵」と同じであり、戦前に教会存亡の危機をもたらした靖国神社参拝問題の再来です。国旗への愛着が強い米国においてすら、学校での国旗敬礼への強制を許していないのに(一九四三年最高裁バーネット判決など)。

教育はそれが「自由」に向かわないのなら、長期にわたるマインドコントロールに他ならず、日本は戦前、最も基礎的な人権「思想・良心・信条の自由」(日本国憲法十九、二十条)を踏みにじる教育により、暴力と侵略を拡大させました。その同じ圧力が今また、過去の記憶を殺そうとしながら、平和と人間の尊厳を擁護すべき国民主権国家、またかつての侵略で被害を受けた国出身の人々も多く在住する現代日本において、国旗国歌に昔と同じ役割を負わせようとします。しかし過去を忘れ、歴史に無頓着な者に、確かな将来などありえないでしょう。

今、とりわけキリスト者教員が苦しんでいます。神の愛といつくしみ、人間の尊厳と自由に向かって生徒と共に成長することを望んだ教員たちが、明るく働けるように祈ります。

 

人格の尊厳と良心

神だけが触れることのできる人間の「心の自由」について、第二ヴァティカン公会議は次のように格調高く宣言しています。

「人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際しては『これを行なえ、あれを避けよ』と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない」(第二ヴァティカン公会議『現代世界憲章』第十六項)。

真理と自他の幸福を求め、より良く美しいものを追及する良心の働きにこそ、人間の尊厳の核心があります。その呼び声に、苦しくとも忠実に留まることができますように。

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