教皇フランシスコ:『福音の喜び』

4 2013年11月半ば、教皇フランシスコは、イエスの宣べた福音の喜びについて、最初の長文の公文書を、全キリスト教徒に向けて発表しました。その文書は使徒的勧告であって、社会的な文書ではないのですが(184)、教皇フランシスコは、ヨハネ23世と第二バチカン公会議からベネディクト16世までに続く前教皇たちの教えに従って、現代社会に関するカトリック教会の立場を提示しています。
 その使徒的勧告は、長文であって(A4で約80ページ)、この短いスペースで、それを要約することは不可能です。彼は教会とキリスト者が、すべての人々、特に、貧しく病気の人々、さげすまれ忘れられている人々と心を通わせるよう招いています。 彼の現代社会に対する取り組みは、第2章Ⅰの「現代の世界からの幾つかの挑戦」にはっきりと示されています。そこでは、現在の経済システムが、その根本において、不正なものであると弾劾されています。このような経済は、人を殺します。排除されるのは、搾取される人々ではなく、社会から見捨てられた人々、残りものとなった人々です。彼は、「どうして年老いた路上生活者が野ざらしで死ぬとき、それが新聞の記事にならず、株式市場が2ポイント損失するときは記事になるのか?私たちは人々が餓死していく一方で、食物が捨てられていくとき、傍観し続けることができるだろうか?」(53)と嘆きます。市場の自律性は、広くはびこる汚職を伴いながら暴力的な支配体制となってきています(56)。奉仕するのではなく、むしろ支配する財政システムにはノーです(57-58)。現在の財政的危機は、人間的な卓越性の否定にその根をもっているのです!私たちは新しい偶像を作ってしまった、すなわち、お金に対する偶像崇拝です(55)。「暴力を生み出す不平等にはノーです。現在多くの場所で、私 たちはより強固な安全保障を要求しているのを聞きます。しかし、社会と人々の間における排除と不平等が逆にされない限り、暴力を除去することは不可能でしょう」(59)。
 教会の社会教説に関して、教皇フランシスコは、不確かな難しい事態について、教会の教えが、新しい更なる発展に従属すべきであり、議論に開かれたものであるはずだ、とキリスト者に思い出させます。今なお、実践的な結論を引き出す必要があるのです。「宗教は個人的な領域にのみ限定されるべきであり、天国へ導くため、魂を備えるためだけに存在している、などと主張することは不可能です」(182)。もし本当に「社会と国家の公正が政治の中心的な責務」であるならば、教会は「正義の闘いにおいて傍観者になってはいけません」(183)。「今日において、歴史的に最も基本的な、二つの大問題が、私を驚かせ、これからそれを中心的に取り上げる予定です。まず第一に、貧しい人々を社会の中につつみ込むことであり、第二に、平和と社会的な対話を促進することです」(185)。「貧しくなり、そしていつも貧しい人や見捨てられた人の近くにいらしたキリストへの私たちの信仰は、最も社会に無視されているメンバーたちへの総合発展への関心の基盤です」(186)。
 貧しい人々への関心と配慮は、教皇フランシスコ在位における重要な関心事の一つです。第4章「福音宣教の社会的次元」において、彼は「貧困や脆弱さの新しい諸形態へと近づいていくことは不可欠なことです。その中にあって、苦しんでいるキリストを認める呼びかけがある」と明言しています。「私は、路上生活者や中毒症者、難民や原住民、ますます孤立化し、見捨てられていくお年寄りや、その他多くの人々のことを想像します。移住者たちは、私に特別の挑戦をしています」(210)。「私は常に、様々な種類の人身売買の犠牲になっている多くの人々のことで悲しんできました」。このような卑劣な犯罪のネットワークは、秘密の倉庫の中や、売春組織の中、又は物乞いのために利用されている子どもたちの中で、正当な手続きを経ない搾取する労働において、毎日、人を殺しているのです(211)。 (安藤勇 SJ、イエズス会社会司牧センタースタッフ)

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