イエズス会東ティモール地区の新しい教育使徒職 -聖イグナチオ中学高等学校と聖ジョアン・デ・ブリトー教育大学-

浦 善孝 SJ

 私は2012年5月からイエズス会日本管区より、イエズス会東ティモール独立地区(Independent Jesuit Region of Timor-Leste)が設立運営する聖イグナチオ・デ・ロヨラ中学高等学校(Colégio Santo Inácio de Loiola/以下「聖イグナチオ学院」)と聖ジョアン・デ・ブリトー教育大学(Colégio São João de Brito/以下「聖ジョアン・デ・ブリトー学院」)で働くために派遣され、当地に赴任しました。聖イグナチオ学院はすでに2013年1月15日に開校し、一期生男女83名の中学一年生が在学しています。2014年8月31日には、ニ期生の入学試験も実施されました。教育大学は、政府に設立申請中で2015年開校を目指しています。これら二つの新しい学校は、首都ディリから西へ20Km離れた農漁村地帯のリキサ県カサイ村に位置します。私は現在、中学一年の「宗教科」の授業を担当しながら、中学高等学校と教育大学のために二つの図書館を開館する準備や奨学金業務に携わっています。日曜日ごとに、山間部や海辺のチャペルへミサにも出かけています。

東ティモールは日本のほぼ真南に位置し、羽田から深夜便で出発するとインドネシアのバリ島デンバサールで航空便を乗り継ぎ、翌日昼過ぎにはディリに着きます。面積は岩手県とほぼ同じくらい、人口は約110万人です。東ティモールは16世紀半ばからポルトガルの植民地支配が続き、1975年11月28日にフレテリン党が独立宣言をしましたが、同年12月インドネシア軍の侵攻を受け、1976年には27番目の州としてインドネシアに併合されます。ポルトガル政庁は、1975年に事実上東ティモールを放棄しました。

インドネシアによる行政がはじまると州知事が任命され、ディリはインドネシアの地方の一つの町、軍の駐屯地となります。健康保健、農業、公共事業、教育、報道などは、インドネシアの政策それ自体と一体化していきます。選挙もインドネシア国家として、また一地方行政地域のものとして行われました。1991年には、11,036人のインドネシアの公務員が働いていましたが、要職はインドネシア人が占めていました。また学校教育でもインドネシア本国と同じ教育がインドネシア語で同じ教科書を使って行われました。これらのことは、国家のアイデンティティがインドネシアのものに移行していくことを意味しました。とりわけ高校の教員のほとんどはインドネシア人が占めており、東ティモール独立決定と同時にインドネシア人教員が一斉に引き上げたこともあり、東ティモールの教育制度は一旦崩壊してしまいました。東ティモールは早急に教員を補う必要に迫られ、現在でも教員の7割は適切な養成を受けていないといわれています。

1991年11月12日、インドネシア軍によるサンタ・クルス墓地の虐殺事件が発生し、外国人ジャーナリストがインドネシア軍の行動を海外に伝えました。また1996年、独立運動の指導者であるディリのカトリック教会のベロ大司教とラモス・ホルタ(後の大統領)がノーベル平和賞を受賞しました。これらを機にEUや米国で、インドネシアによる東ティモール侵攻と人権侵害がより大きく問題視されるようになります。国家間の利害関係に絡む政治的黙認と、イギリス製やアメリカ製の兵器が侵攻に使われている事実も問題になりました。1998年、インドネシアもアジア金融危機に見舞われスハルト大統領は辞任しましたが、後任のハビビ大統領が東ティモール問題に対する国連の関与を認め、1999年5月9日ニューヨークで関係国会議が開かれ、1999年8月30日の「独立か」、「インドネシアの自治領として留まるか」を問う住民の直接投票実施に至りました。投票率は98.6%、独立支持が78.5%でした。しかしながら、直後にインドネシア軍と統合支持派東ティモール人民兵が虐殺破壊活動を行ったために国連安保理決定に基づく多国籍軍派遣を受け、1999年からは国連による「東ティモール暫定行政(UNTAET)」が始まり、ついに2002年5月20日に国家独立復興の日を迎えました。しかし、1975年から2002年までの間に、多くの難民と、約20万人に及ぶ死者・行方不明者が出たといわれています。2012年5月20日、東ティモールは独立再興10周年を祝いましたが、再独立後も2006年には内乱が起り多くの国内難民が生まれ、08年には当時のラモス・ホルタ大統領狙撃事件が起き不安定な政治状況が続きました。併記すべきことは、東ティモールは1942年から3年近くに及ぶ、日本占領時代も経験しており、従軍慰安婦のことなど現在でも解決へ向けて取り組まなければならない課題を残しています。占領や併合による戦乱は徴用や耕作地放棄をもたらし、食糧不足を起因し、いかに人びとの心身をも憔悴させてきたか気づく必要があります。戦火から逃げて難民となったり強制移住させられた人びとは、耕作地や伝統的な家族集落システムの相互扶助システムから切り離されてしまいます。今でも人びとの貧しい状況は続いており、経済・社会活動は虚弱なままです。ただし、1999年以降日本政府は東ティモールへの多額の援助を行い、人びとから評価を得ていることも事実です。

国家再興10周年を迎えた2012年12月、国連が同国の活動を終了しました。私がこちらに赴任した時、まだ多くの「UN」と描かれた車がいたるところを走っていました。政府機関にも国連職員が駐在していました。空港のイミグレーション、税関にも。関税制度を作っているという人にも出会いました。行政、司法、律法、そのすべての制度を当時人口百万人に満たなかった国がゼロから作り上げていくことになります。教育制度や警察制度もそうです。2002年に再独立を果たしましたが、国家として安定しはじめたのはここ数年です。2012年7月の国民議会選挙には諸外国の選挙監視団が選挙の様子を見守りました。選挙結果を巡り小さな事件も発生し数人が死亡しました。不満を持つある政党支持者が隊列を組みシュプレヒコールをあげながら走り去るところに、私は居合わせました。

独立前から独立直後の揺籃期、3名の日本人イエズス会員が東ティモールで活躍しました。林尚志神父(下関労働教育センター所長)は、インドネシア統治時代から何度も当地に赴き、人びととの連帯を表明してきました。堀江哲郎神父(在、ブラジル)は7年間にわたり滞在し、特に大神学校で教鞭をとり、神学生たちの霊的指導者として働きました。そして山田経三神父(元上智大学教授)は、独立を問う直接投票直後に住民の大虐殺があったインドネシア国境に接した南部の町スアイで人びとと共に住み彼らのために働かれました。今でもこちらの人びとや聖職者たちから、3人のことを親しみと感謝を込めて尋ねられます。人びとは、3人のイエズス会員が東ティモールの独立のために共に歩んだことを今でも覚えています。当時に較べると、人びとの生活ぶりはリラックスしてきましたし、生活は前向きです。それぞれの家族は、犠牲者を悲しみながらも新しく生活を立て直す明るさを持っています。街角もアジア諸国にある特有の活気を帯びてきました。国連撤退は東ティモールの経済にマイナスの影響を与えると思われていましたが、見る限り部分的なものにとどまっているようです。政府が積極的に公共投資を行い道路や側溝、電気供給などのインフラ整備を進めているところです。南部のティモール海には石油天然ガス資源がありますが、かつてインドネシア政府がオーストラリアと結んだ資源開発に関わる協定があり、オーストラリアとの間で懸案事項になっています。それでも税収やロイヤリティー収入があり、政府は「石油基金」を設立し国家予算に活用しています。

人びとと連帯し共に働くということには変わりありませんが、私は3名のイエズス会員の時とは異なる情勢の当地に赴き、教育活動に携わっています。そこで、学校現場から見えてくる東ティモールの現状の一部をお伝えしたいと思います。中学一年生の「宗教科」の授業を担当しているので、ノートや試験を通して生徒の国語(national language)である「テトゥン語」を読みます。また、私自身も語学テキストを使いながらテトゥン語を学んでいます。テトゥン語がポルトガル語と並んで公用語となりましたが、テトゥン語が正式な形で公用語とされたのは、東ティモール再独立後のことです。インドネシア統治時代はインドネシア語の使用が強制されていました。それ以前は、テトゥン語が優勢でしたが、各地域で独自の言語が用いられていました。唯一、カトリック教会はテトゥン語を典礼用語としてインドネシア統治時代でも用いていました(それ以前は教会もポルトガル語を使っていました)。現在は学校で、「テトゥン語科」と「宗教科」のみ授業でテトゥン語を使用することを政府は認めています。他の教科は教科書と試験を含めてポルトガル語使用が定められています。しかしながら、独立後も混乱が続いた同国では、テトゥン語の標準表記は定められているものの、中学校の「テトゥン語科」の教科書は未だなく、読書のための小説も皆無に近いのが実情です。私が使っている「テトゥン語テキスト」は、語学学校を併設する大学が発行したものですが、政府の標準表記法とは異なるスペリングで単語が綴られています。新聞も各紙単語の綴りが異なります。教会の典礼書は、版が異なれば綴りもまた異なっています。それ以上に、現在の教員の年齢層にある人びとはインドネシア語のみで教育を受けてきました。大人たちの中には「インドネシア語ではその名前を知っているけれど」「インドネシア語ではその言い回しを言えるけれども」、テトゥン語ではわからないと言う人びとがいます。したがって生徒に「正しいスペリング」で試験に回答するように厳格に求めることはできません。これに公用語の「ポルトガル語」事情が加わってくると、さらに複雑になります。たびたび報道されますが、教員はポルトガル語ができないのです。また中学高等学校への進学率が低い中、ポルトガル語リテラシーが社会経済階層を決定する一つの要因になる可能性も危惧されます。

東ティモールの学校への派遣を私は、「人間としての互いの存在と尊厳を大切にする」ヒューマンなグローバリゼーションを広めるよう働くためだと解しています。具体的には、学校で勉学し共に過ごすことを通して、一人ひとりが自分の尊厳や自尊心、人間性を高め、他者を認め、結果的には苦難の歴史を経験した東ティモールによりよい社会を築くための貢献ができる生徒を育てることです。私たちは同じ視点から日本国内の現実にも目を向ける必要があります。同時にグローバル経済の主導的立場にある日本の人びとは、「世界と正しい関係を築くこと」「分断された世界に和解をもたらすこと」「真の人間らしさの回復のために働くこと」(イエズス会35総会第3教令)のヒューマンなグローバリゼーションを推進する豊かさも持っていると思います。

◆新しい学校についてはホームページをご覧ください。<東ティモール 聖イグナチオ学院>で検索できます。

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