柴田 潔 SJ (山口教会)

 東日本大震災から2年4カ月が過ぎました。その間の、被災地との関わりをまとめます。

 初めて被災地ボランティアに行ったのは、2011年6月末でした。山口教会の加藤主任神父が「関心があるなら行ってみたらいい」の一言がきっかけでした。2回目までが、宮城県のカリタス・ジャパン塩竈ベースでの個人参加でした。当時のボランティアの内容は、ヘドロ掻きやがれきの片付けなどの肉体労働で、被災地の方から直接話を伺う機会はほとんどありませんでした。連日30度を超える中、一日で2~3リットル汗をかきました。傷ついた心と大地が“再創造”されることを願いながらひたすら作業しました。全国から集まったボランティアの方から多くのことを学びました。特にお世話になったのは塩竈ベースリーダー蒲池龍一さんです。蒲池は「神父さんに言うのは何だけど、百の説教よりも捨て身の努力が大事」と教えてくれました。自衛隊・警察・消防の震災直後の決死の救助と遺体捜索、まだ混乱する状況下でボランティアを切り盛りする蒲池さんの手腕に頭が下がりました。
 ボランティアの合間に、被災地の状況も見ました。私は、イエズス会に入る前にプレハブ住宅の営業をしていたこともあり、家が流されることに特別の感情を持ちました。家を建てるまでの労力、30年かけて支払うローン、その間の家族の誕生と成長・・・家族の夢が流されたことで、12年間勤めた私の努力も跡形もなく流されたように感じました。「救いのないサラリーマンのために司祭になりたい」と願って叙階されましたが、被災地はその次元を超えていました。

 私は、これから被災地とどう関わっていったらいいのか? 塩竈から山口に戻って考えました。帰ってから始めたことは、福島のボランティアに負けない体力づくりでしたが、炎天下で走ると直ぐにばててしまい、これは無理だと分かりました。折角汗をかく習慣が付いたので、何かできないか?と考えていた時思い浮かんだのは、目前に迫っているバザーでカブトムシを売ることでした。朝からひたすら教会・幼稚園に隣接する山に入って、羽化したてのカブトムシを掘り当てました。4日間で100匹以上のカブトムシを捕まえ、幼稚園のお友だちに買ってもらいました。私にバザー全体の収益をどこに送金するかの相談がありました。その年の幼稚園の保護者会長さんは「顔の見える支援を。できれば子供たちに。」と希望されました。
 特に困っているカトリック幼稚園を探し出そうと、山口から電話で問い合わせました。宮城県内は比較的無事で、隣の福島県の幼稚園に電話を掛け始めて何軒目かにカトリック二本松幼稚園と出会いました。佐藤せつ子園長から地震と原発事故の被災状況を伺いその年のバザーの収益は全額二本松幼稚園に送金することになりました。

 福島支援がこうして始まり、11月に二本松幼稚園を訪問しました。2011年度に保護者会長だった渡邊守さんは、「お金をポンと出せる人はいるかもしれない。でも、暑い中汗をかける人は多くない」と、バザーで尽力した人たちをたたえてくれました。原発事故によって、住宅・土地・自然が汚染されて奪われてしまったこと、それだけでなく人の間に放射能・賠償金を巡る軋轢ができていることを現地で知りました。渡邊さんは「いがみ合うのはやめましょう。誰も悪くない。悪いのは原発事故。」と諭して幼稚園を1つにまとめました。
 渡邊さんはJRバスの運転手で、原発事故直後浪江町から二本松まで避難者をピストン輸送されました。バスに乗り込む人たちは着の身着のままですぐに戻れると思っていました。移動中、「亡くなった乳児は(汚染物質なので)山中においていって下さい」と自衛隊・警察に指示され、「ごめんね。またほうむりに来るからね」と言って悲しい別れを告げた人にも出会いました。福島の方の苦しみは原発事故直後に留まりません。渡邊さんは仕事先の岩手で食事をしていたら、お店の人に「どこから来られたんですか?」と聞かれ、「福島から」と答えると、「ファブリーズ持って来て!」と言われショックを受けました。同僚のバスガイドさんは、ツアーのお客様から「トイレ休憩で福島は外して欲しい」と言われて涙が流れ出ました。サービスエリアは、実家のすぐ近くでした。
 “酪農(楽農)”ではなく苦悩(苦農)だと言う言葉も聴きました。毎日搾ったお乳が、市場に出回らないように紅で赤く染められています。酪農家の自尊心・やりがいはガタガタに崩されました。原発が本当に安全ならば、人がたくさん集まるところに建てたらいい、と渡邊さんは言われます。確かに、人口が減り、仕事がない地方の人々の足元を見て原発は建てられてきました。それでいて、原発を推進してきた人たちの事故に対する責任は何も追及されていません。これでは、福島の方たちは浮かばれません。
 日本はいったいどうなっているのか?という怒りが湧いてきます。原発事故は既に取り返しのつかない事態に陥っています。「新基準にすれば安全」とか、「電気料金の値上げを防ぐために再稼働する」という話ではもうありません。「元に戻せない以上、もう続けてはならない。」というのが私の結論です。このような考えに至ったのも、バザーをきっかけに二本松の方たちと出会えたからです。幼稚園の保護者にも福島の現状を話す機会があります。中には、節電目標額を決めて、達成できたので支援に使って下さいと言われる保護者もいます。クリスマスの我慢募金では「クリスマスプレゼントはいらないから紙のお金で募金したい」と言う子もいました。大事に育てたカブトムシを「福島の子どもたちのために」とバザーの際に渡してくれる子もいました。大人の心も揺さぶられています。私は、卒園する園児さんに3つのお願いをしています①代替エネルギーの開発者になること②原発のお片付けを進める人になること③福島のお友だちの健康を守るお医者さんになること。教会が望む人材が社会に輩出されることを願っています。今年の夏に予定されている、福島の家族を招くための費用は、幼稚園の募金活動から始まり、山口地区で協力の輪が広がっています。

 話は前後しますが、2回目の塩竈でのボランティアから帰ってから、一つの限界を感じました。「自分だけ何回も行ってもダメだ。別の人、特に若い人が被災地を体験することで支援が広がる」と考えるようになりました。しかし、山口と東北には距離やお金の問題があります。
 躊躇していたとき『0泊3日の支援からの出発』(加藤基樹編者 早稲田大学出版部 2011年)という本に出会いました。大学は、2011年4月から半年で1300人の学生を派遣しています。その企画・手伝いをするのは一般の職員で、文字通り二足のわらじで非常時の東北を支援していました。私の覚悟は決まりました。長期の休み期間中にボランティアを企画・引率しようと決心しました。これまでに計5回で71名が参加しました。いつも大槌ベースを拠点にしていますが、元ベース長の古木眞理一(ふるきまりかず)神父さんは「グループで来る場合活動を準備してきて下さい」と言われました。毎回、幼稚園の先生が参加されるので、学童の子どもたちのための活動を考えます。仮設住宅の集会所では、主婦のアイディアで山口名物のフグ雑炊・瓦そばなど作りました。旅費の半額は、善意の方からの寄付で賄っています。こちらがお願いしなくても「自分の代わりに連れて行って下さい」と、毎回10万円ずつ渡して下さる方もいます。このような後ろ盾があって毎回実現しています。
 バックアップを受けた若い人の中には、「防災のために尽くしたい」と、それを学べる大学を志願した女子高生がいます。小学5年生の女の子は1年かけて自己負担分の旅費を貯めて参加しました。参加した大人の意識も変わっています。「家族といられることは当たり前ではない」「もっと早く行けば良かった」「今からでもできることをしていきたい」「他の方にもぜひ勧めたい」・・・このような体験は、職場・家族・友人間での人の関わりにも影響を与えています。知らない間に、「思いやりあふれる私たちに」“再創造”されています。

 まだまだ、被災地への善意は潜在的にあります。それを掘り起こしてまとめていくなかで、被災地の方は神様の働きを見るのでしょう。山口からできることは、まだまだあるはずです。それを追い求めることが私にできることです。特別に苦しい東北の方に、特別の情熱とエネルギーを山口から注ぎたい。そんな気持ちで2年4カ月が過ぎました。