街のそよ風:沖縄から

山田 圭吾(泡瀬教会信徒/那覇教区)

  多くの人は、安寧を望み、変革を好まないものなのだろう。ましてや、それが痛みを伴うとなればできるだけ避けようとするのが当然であろう。
しかし、あえて変えること、変わることが必要とされることがあるのも事実である。
  第2バチカン公会議で、それまでの長い伝統で淀んだ空気を入れ替えようとした動きは、歓迎される向きもあったが、反発も多く、かなりの痛みを伴って、現在にも様々な形で影を落としているようだ。
  それでも、あえて変革を実行した当時の教会の英断は、組織ばかりでなく、個々人の信仰も、初代教会の精神を甦らせようとの動きへと発展していったのだろう。
  典礼聖歌が普及し始めたころ、個人的にはものすごく違和感があり、なじめなかった。それまでのグレゴリアンやカトリック聖歌に慣れ親しんでいたし、その大和歌風の音階は、沖縄に生まれ育った者にとって、肌に合わない感じがしたものだった。しかし、主祷文や天使祝詞等の祈りにしても、日常的に使うことによって、次第に慣れてきたものである。それまでの生活を一変する出来事はやはり戸惑いもあり、憤りもあり、そしてあきらめもあったりして複雑な思いにもなるが、それが必要だからこその変革もあることを自覚しなければならないのかと思われるのだ。
  さて、多くの日本人は、日本という国が何千年も昔から現在のような姿であったかのように錯覚しているのではないだろうか。だが、現在の47都道府県の形になってから、わずか41年にしかならないのだ。
  領土を広げるに従って言葉や習慣が変わり、首都や人口も移動していき、「蛍の光」の歌詞も変わっていった。急激な変革で争いも起こっただろうし、緩やかな変化は次第に庶民の生活の中に浸透していったのだろう。
  だが、慣れることと忘れることは別物である。
20年程前、奄美大島の方が「高校野球では、ずっと沖縄を応援していたけど、次第に鹿児島を応援するようになった」と言っていた。琉球の一員と思っていたのに、鹿児島県と言い続けていたら、鹿児島県人になってしまったと言うのだ。良くも悪くも慣れさせられてしまったのだろう。
  わずか70年程前、台湾を領土としていた時の日本一の山は新高山だったことも忘れられているようだ。戦争中は「国体」を守るために沖縄を「捨石」とし、敗戦で占領された後は、天皇メッセージによって沖縄(県)、奄美諸島、小笠原諸島を切り離し、1952年4月28日に「独立」した。それなのに、この日を「主権回復の日」として式典を行うという。これも、歴史を忘れていることの現われであろう。これらの切り捨てられた人々の存在や思いは無視され、怒りの声を挙げる沖縄に対して、「いやなら日本から出ていけ」との罵声も浴びせられたという。

  自分たち(日本)の都合で領土にしたり、切り捨てたりしても、遠く離れた沖縄の存在は、日本という国の多くの人にとっては何も変わらず、また変わってほしくないという思いのままなのだろうか。 国土のわずか0.6%の島々に在日米軍の74%を押し付けて、自分たちだけの平和を謳歌している日本の姿は、ハンセン病者を僻地に閉じ込めて、自分たちは安全だとした「隔離政策」と共通するものがある(もちろん、それは沖縄の人々も例外ではないのだが・・・)。
  沖縄や奄美諸島が載っていない地図にもそれらは表れていて、デザイナーも編集者も、そしてそれを見ている人も気付かないとはどういうことか。
沖縄では10万人以上が集まっての「オスプレイ配備反対」の県民大会を開催しても無視されているのに、他県には一時的な配備でもわざわざ閣僚が赴いて謝罪している。これらの状況は「構造的差別」とも言われている。
  1960年代、沖縄の復帰運動の中で、「小指の痛みは全身の痛み」という言葉があった。沖縄の痛みが日本の痛みになる日が来るのだろうか。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(一コリント12・26)

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