タイの厳しい現実

アルフォンソ デ ホアン SJ (イエズス会タイソーシャルサービス)

1.危険にさらされている、地方の少女たちへの奨学金支援。誰が、そしてなぜ。
  カンボジアとラオスと国境を接する北東部は、タイの中で、もっとも貧しく、そしてもっとも広い地域です。そこには、たくさんの恐竜の化石や古代の陶器、豊かな民間伝承などがあります。それからこの地域はほとんど発展していないのです。この地域からそして北部から、膨大な数の少女たちが都市へ行き、性産業に入っていきます。その理由は、ほとんどが貧困、機能不全家族、欠乏状態、借金、等です。ホテルのような第三次サービスや、観光地が中心部において発展するにしたがって、農民出身の低賃金労働者の需要もまた増大しました。そして多くの小作人は土地を失いました。教育は、この地域に入ってきた最後のものでした。ベトナム戦争終結後、旅行ブームとなり、西洋人や、日本、韓国、中国、の人たちがタイに観光に来ました。そして同時にHIVウィルスとエイズが増えてきました。なぜ標準的なアジアの1国において、数千人もの少女たちが性産業とあくどい搾取へと追いやられているのかを説明するために、私は、私の抗議の叫びThe Cry of my appealというビデオの製作に協力しました。タイのイエズス会難民サービスでの仕事を終えた後、私は、少女たちが自分たちの村に住み続け、学校に通い続けられるために、ビデオで企てたことを実行に移す決意をしたのです。それは、奨学金を提供することによって、妊娠のおそれのある少女たちへの性的搾取を防止するということです。財政的援助は、一年に200ドルです。高校を終えて後、もし彼女たちが大学に入ることに成功するなら、私たちは政府からの貸付金が得られるまで援助します。ある人たちは既に教師や看護師、フライトアテンダント等々になっています。他では洋裁師になる人もいます。JESS(イエズス会タイソーシャルサービス)に支援されている、洋裁師のためのワラリ職業訓練所は、東京の上智大学出身の堀内絋子さんと友人たちの支援によって始められたものです。
  私たちがこの仕事を始めた時、最初に寄付をいただいたのは、当時イエズス会社会司牧センターの所長をしていた安藤勇神父でした。私たちは彼にとても感謝しています。そしてまた、姫路の西川芳樹医師から支援をしていただきました。彼は、私たちが姫路の学校とタープラヤTaphraya地域の間で交互に訪問することを助けてくれました。彼、そして姫路地域の多くの医師がタイの多くの地方の医師と素晴らしい友好関係をもったのです。彼は、HIVに感染したタイ人女性の、夫たちに対する態度について、ゆるしForgiveness と言う一冊の本を書きました。この本は姫路で賞を取りました。彼は亡くなってしまいましたが、私たちは彼や、彼の家族、そして彼の友人たちをよく覚えています。彼の遺灰の一部は、彼の希望により、タイの川と海にまかれました。私たちはほぼ20年間、奨学金を提供し続けています。彼らの大部分は仏教徒で、山岳民族、少数のキリスト者、南部出身のイスラム教徒などです。現在、タイの社会には、非常に深刻な政治的かつ社会-倫理的問題があります。そして相も変わらず、弱い地域が、もっとも苦しんでいるのです!HIV感染は若い世代の間でより頻繁に起きており、妊娠中絶もまたしかりです。タイの76県の内、55県の人が、私たちの奨学金を受け取っています。

2.タイ南部のイスラム教徒。その不安はなぜか
  タイで暮らした侍、山田長政の生涯について書かれた遠藤周作の小説の舞台は、アユタヤ朝時代のザ・オールド・サイアムthe old Siamです。その時には既にイスラム教徒は、君主と共に、シャム南部(パッターニーPatani)にいました。ほとんどの場合、彼らは、アユタヤの王の保護を得るために、年貢と税を彼に払うことに同意していました。しかしアユタヤ朝にはまた、ペルシアやその他、日本、中国、ポルトガル、フランスといった国の大使館がありました。大部分が、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、そしてヒンズー教徒で、大抵は貿易で関係を持ちながら、平和に暮らしていました。いくらかの中国人イスラム教徒もまたシャムに住みつきました。それゆえ、中国出身のイスラム教徒とペルシアとインド出身のイスラム教徒は、小地区に住んで、タイ全体に散らばっていました。それ以来、彼らは、相互の尊敬と平和をもって、今日まで地元の人たちの生活様式にうまく適合してきました。タイのいくつかの都市にはモスクがあります。それはバンコクでも同様であり、バンコクがタイ王国の首都となってから、国王は全ての宗教の保護者なのです。
  南部イスラム教徒はマカッサルMakasar、ムラユMalayu、マラッカMalaccaといったインドネシアからシャムにやってきました。それゆえ民族的にも言語的にも、彼らは本国の他のイスラム教徒とは違っています。彼らは、旧パタニ王国に、すなわち今日、タイの最南部の3つの県を形成している、パタッニー県Patani、ナラーティワート県Naratiwat、ヤラー県Yalaという地域に住んでいます(前頁地図参照)。彼らは独立して生活することができましたが、領土を広げたい他の民族や国の将軍からの攻撃に対しては、タイによって守られていました。シャムはラオス、カンボジア、ビルマ、マレーシアを植民地としたヨーロッパ列強によっていくつかの領土を失いました。しかし、南部は依然としてイスラム教であり、タイとともに残りました。現在、およそ8万人のイスラム教徒が、少しの仏教徒と共に暮らしています。彼らの大部分は、ゴム農園の栽培をしたり、または漁業をして、簡素に生活しています。彼らは昔ながらの彼ら自身のままでした。
  しかし、およそ40年前から、バンコクの中央政府は、政治的な問題、あるいは不正行為を行った役人を罰しはじめ、南部に送りました。そして彼らの一部はそこで悪い影響を及ぼしました。一方で、この国境地帯は時折、マレーシアによって干渉され、または、共産主義勢力や分離独立主義者や非合法的な貿易を支持しているため、状況に応じて、タイ政府に干渉されました。タクシン・チナワットが首相になった時、彼の政党が人気を得るべき時が来たと考え、伝統的に支持されていた民主党から国民のサポートを引き離しました。早速彼は、行政上の多くの政策を変更し、彼自身が警察官であったので、警察に大きな力を与えました。ある事件では、警察官と軍人がタク・バイTak Baiのイスラム教徒85人を殺しました。別の事件では、クルッセ・モスクの中で礼拝していたイスラム教徒数人が殺されました。また別の事件では、最も有名なイスラム教の弁護士が連れ去られて、殺され、遺体は消えてしまいました。これらの事件に対する裁判は今日まで全く行われていません。それゆえ、それ以来、暴力行為、殺人、爆破事件は日常の出来事になってしまいました。仏教徒やイスラム教徒が殺されるのと同様に、教師、仏教の僧侶、軍人、役人、そして一般の人たちも殺されます。銃や薬物、監視システムによって起きている問題を解決するために、たとえどんなに多くのお金を注ぎ込んだとしても、まったく効き目はありません。真実なのは、その大部分が政治的な問題であり、宗教的な問題ではないということです。そしてバンコクの人々と政府は、そのことをなんら気にかけておらず、もっと悪いことには、それを政治的利益のために操作しようとしているのです。実際のところ、PULOやBRNのような、いわゆる盗賊、分離独立主義者、テロリストといったグループが常に3~4つあって、スウェーデンに代表者がいるにもかかわらず、それらの勢力や国際的な影響は極めて小さいものです。
  タクシンの最後の動きは(彼は最高裁において懲役4年の判決を受けましたが、逃走しています)米国、ヨーロッパ、日本等が、南シナ海の入り江にある豊富な石油、ガソリン、天然ガスの入手手段を得られるように、彼らとマレーシア、カンボジアの間をブローカーとして取り持ち、それによって彼らからの援助を得ようとし、そしてマレーシアとパッターニーのイスラム教徒の協力を得たいとするものです。タクシンの妹である現首相のインラックは、タクシンに託されたことを行っています。誰がテロリストのような人たちに武器を供給しているのでしょうか?かつてリビアやサウジアラビアでは、武器を提供することで、イスラム教徒が苦境にある兄弟たちを助けるのは、普通のことでした。しかし、タイにおける武器の密輸は軍人の特権であることを思い出すと、タイのイスラム教徒の大部分が、た易く十分な量の武器をタイ国自体から調達しているのです。
  かつて私の友人西川芳樹医師が、南部の病院のためにすばらしい救急車を寄贈してくれました。その時南部から来た有名なタイ人医師二人と彼と私とで夕食を共にしました。私たちがヤラーにある病院に二人の医師の内の一人を訪ねにいきたいという希望を述べた時、彼は言いました、「あなた自身の安全のために、来ることはできません。私自身、そしてテロリストの怪我人やその他の者たちの世話をしているイスラム教徒ですら、安全ではありません。誰も安全ではないのです」。

Comments are closed.