まだ終わってません。

渡部 瑞穂(福島県浜通り在住)

  2011年の3.11はだいぶ前のことのようだが、2012年11月現在において全く終わっていない。未だ被災地は、復興の名のもと、模索の日々が続いている。

  福島県浜通りは海岸沿いの地域だが、そのど真ん中で原発事故が起きている。そのため、常磐線と国道6号線は寸断されたままだ。警戒区域内から避難した住民は帰れない。放射性廃棄物の事故現場近辺の放射線量は高い数値を記録し続けている。放射性物質は漏れ続けている、ということを暗に示している。
  2012年5月に東京から福島へ戻ってきた。街が埃っぽいという感じと、子供たちがマスクをしていない、ということが印象強かった。当然、大人も着用しているのを見かけない。私たち家族は、埃について飛んでくる放射性物質を避けるため、マスク着用を強く勧められていたので、外出時はいつもマスクを着けている。正直、夏場は暑い。
  東京にいる間、福島へ戻ることについては随分と考えた。戻る場所は原発事故現場から40㎞程しか離れていない相馬市。飯舘村はすぐ隣。低線量被曝の影響を心配されたし、食物や水の汚染のこと、何よりも、収束していない原子力発電所の状態がいつどうなるかわからないものであること。カトリック教会では40歳未満のボランティアは福島県内には送り込まないことに決定していると司教から聞かされていた。だが、高齢の家族たちは戻りたいという希望を強く持ち続けていた。自分の家には戻れなくても、その近くに居たいのだ。
  福島へ戻ったその日は大雨だった。翌朝枕元で放射線量をはかると0.34μSv/hである。東京では高くても外で0.07μSv/hだった。福島へ戻ってから10日ほどすると体に異変が起きた。咳き込みがとまらず、胸が締め付けられる苦しい症状が数日続いた。同様の症状は家族たちにも起きていた。放射線量の高い地域に住み始めた者への手荒な洗礼、といったところだろう。
  2か月間は、自宅の片付けや祖母の介護サービスの手続きなど、生活に必要な事柄を整えることに費やした。介護サービスは東京では週2回受けていたが、「週1回にしてください」と事業者側から言われた。つまり手が足りないということなのだ。私の住む被災地域では、介護事業、介護サービスの急速な応援が求められている。
  高齢者が増えている、というよりは、もともと元気だった高齢者が震災後のリロケーションダメージで介護が必要になった、ということなのだ。
自家用車がないので、駅周辺の様子しかわからないし、買い物にもいけない。少し遠くの勤務先だと働きに行くことも難しい。公共交通機関はJR常磐線が破損したままであるから、バスか、タクシーをつかうしかない。しかし、家が破損していて修繕が必要なときに、わざわざお金を払ってまで乗ろうとは思わない。田舎ほど、自家用車が必要な場所はないので、循環型のバスがほしい。
  車通勤ができないので、徒歩で通える勤務先をハローワークで探してもらった。採用面接の翌日から勤務させてもらったので有難い。建設関係なので、様々な声が聞こえてくる。応援職員の人たちも各地から来るので、勉強になる。地方自治体比較行政システム学、という分野があったら、是非学びたい。各自治体の行政システムは異なっている。だから、どこが進んでいて、どこが遅れていて、実際何が役に立つのか、ということが、知りたいし、役に立つものをすぐにでも導入してほしい。
  室内温度30度の中でこの夏は勤務し続けた。冷房は故障しているらしい。扇風機のもらい風で涼むか、冷房の効いている部署にかけこむことで急場を凌ぐしかない。夏場に珍しくあっという間に体重が増えた。ストレスによるものだ。しかしながら、鉄筋の建物の中は、自宅とは異なり0.06μSv/hと低い放射線量だ。
  ちなみに自宅の庭は1.06μSv/hのホットスポットがあるが、市役所の放射能対策室からは、現在は山間部の除染作業に追われていて、平地の除染作業は2年後、と言われた。自宅敷地内で除染したものはゴミに出せないので、自宅敷地内に保管することになる。どのみち、放射性物質はこの町からも、福島からも出せない算段になっているのか、と苦笑してしまった。
  誰を責めるつもりもないが、いらないものを処分もできずに身近に溜め込むだけで、そこから被曝していくなら、面倒なものを創り出してしまったことを率直に認め、原子力発電所施設は即刻片付けにかかるべきである。
  東京にいる友人たちの中には、「原発をとめたら経済がまわらないのに何言ってんの?」、という考えを持つ方もいるが、それはナンセンスである。「人が資本なのに、人が生きていけない環境を創り出す装置を動かすのは、割に合わないでしょ?!」、と言い返したい。

意識のちがい

地元住民の意識
  地元では、マスクを着用するか否かというところからはっきりしている。放射能、放射性物質への危険性を認識していないのか、敢えて意識しないようにしているのかのどちらかなのだろう。
福島市民の意識
  親戚の集まりのときに、福島市民の家族にマスクのことをきいてみた。もう必要ない、着用してもあまり意味がない、という返答だった。近所で除染活動があっても、仕方なくいくような感じ、という話もきかされた。
仙台市民の意識
  カトリックの大学で放射能についての講演があるからと誘いを受けたので行って来た。質疑応答の中で学生が質問をした。学生「私たちは福島の人たちに何をしてあげたらよいのでしょうか?」/後援者「それはあなたたちが考えるべきことです」。あ、他人ごとなのだなあ、と感じた。たしかに仙台市内は空間放射線量が低く、その大学周辺では0.06μSv/hだった。しかし、仙台市近郊を流れる阿武隈川は福島市を経て太平洋に流れ込む。河口付近に放射性物質が溜まっていくであろうこと、それによる影響については考えないのだろうか。まして、福島第一原子力発電所からはさほど遠くない。次に事故が起きたらどうなるか、わからないのに、その危険性をこの大学では教えていないのか、教えても理解していないのか、どちらなのだろう。そのようなことを感じた。

心のケア
  行き届いていない心のケアが、問題を拡充させる恐れがある。震災から2年近くが過ぎようとしているが、その間に、十分に受けるべきケアを受けられず、自分自身の状態を悪化させていく人たちがいる。有志の方々は、すぐにでも現地入りしてリサーチを兼ねた臨床を始めてほしい。地方自治体だけでは無理なのだ。フットワークを充たすだけの専門的人員が不足している。普通の状況であれば事足りるのであっても、そうではない状況に被災地は置かれていることを、理解して頂きたい。もし、地方自治体がその点は足りているから必要ない、と言ってきても、独自の調査をしてもらいたい。

支援者とのかかわり
  支援金を募るところに申し入れをしても、活動報告義務を課せられるか、実際の義務を果たしても活動自体の詳細を知らされていない、というアンフェアな状態に置かれ、非常に精神的苦痛を負わされる。被災地で被災者の生活再建支援事業の職に就いている今、ボランティアをしている余裕は正直私自身にはなくなっている。むしろ、ボランティア的支援活動は、普通の環境で普通の生活を営んでいる方がなさるべきことなのだとわきまえることにした。      
  支援活動にかかわる方にお願いしたいことは、現地の状況をよく把握してほしいということである。観光程度の見方、聞き方では、被災地それぞれのニーズを充分に知ることはできない。被災地に住む者の一人としても、ヒアリング力があり、支援の方向性を善いものへとつなげていける方や活動とかかわることを強く希望している。
  そして、一つ忠告として申し上げるならば、単独ではなく複数で関わっていかれることをお勧めする。支援者を名乗る方たちは多くいても、顔が見えない中でのやりとりが多い場合もあり、困難な状況に置かれることも生じやすいからである。

人の心
  人の心は移ろいやすい、といったら、嘆き節に聞こえるが、傲慢さから謙遜へ移行してくれるのなら、これほど喜ばしいことはない。人の心はもろくて弱いから、つけこまれることもあるし、転落することもある。しかし、清い心への憧れを強くもつのなら、それを追い求め続けることで必ずチャンスは訪れる。そのチャンスに背を向けず、ひたむきに清い心へのステップアップを続けることである。道のりは遠く、険しく、困難だろうから、くれぐれも体を大切に、充電を大切に、ともに歩む仲間を大切に、そして、おつかれさま、と申し上げたい。

  晩秋の今日、北風と太陽が窓の外にある。北風は音がすさまじく、家をガタガタ揺らす。太陽は、まぶしい光とともに暖かさを家の中まで届けてくれる。
  しかし、東北は寒い。仮設住宅での生活はさらに寒い。

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