【 書 評 】 『悼む人』天童荒太/文藝春秋/2008年

  今回の本は、珍しく(というより、たぶん初めて)小説だ。しかも天童荒太(てんどうあらた)というベストセラー作家の、直木賞受賞作『悼(いた)む人』というのだから、何をいまさら書評で取り上げるのか、と自分でも思う。
  なぜ、いまさらこの本かと言えば、テレビで作者のインタビューを見たからだ。作者はテレビで、この本を書いたきっかけの一つが、9.11テロだったと 言っていた。つまり、ニューヨークのテロで亡くなった死者は一人ひとり名前を覚えられて、追悼されているのに、アフガニスタンやイラクで亡くなる市民は名 前も知られず、ただ毎日のニュースで死者の数が読み上げられるだけだった-という事態に、作者は言いようのない違和感を覚えたというのだ。たしかに、そう いう違和感を持ったのは、たぶん作者だけではないだろう。
  しかし、この作者はそこから出発して、深い思索の旅に出る。私たちは、すべての死者を平等に追悼することができないのか。昨日は友人の死に涙して「あな たのことは絶対に忘れない」と言いながら、年月が経つと、なぜあっさりとその死を忘れてしまうのか。人は何のために、誰のために、他人の死を悼むのか。作 者はこうした問いを、実に7年かけて熟成し、作品として完成させたのだ。

  主人公は一人の青年だ。感受性豊かな彼は、身内の死、友人の死、ボランティアで訪問していた病院の子どもたちの死、そして動物の死と、さまざまな死を看 取るうちに、「すべての人の死を追悼したい」と思うようになり、ニュースや新聞を頼りに、事故・自殺・事件・病気で死んだ日本全国の人を、その現場で追悼 する旅に出かける。
  そこにからむのが3人の人々だ。一人は、子ども時代の父母の離婚をきっかけに心がすさんでいき、自分自身も妻子と別れて、事件・事故の記事をおもしろおかしく書き続ける中年の新聞記者。

  もう一人は、聖人君子のような僧侶に請われて結婚しながら、実は自殺願望を持つその夫に操られて、ついには夫を殺してしまう、不幸な若い女性。三人目は、 主人公の母親。彼女は末期の胃がんで死を迎えようとしているが、娘(主人公の妹)は兄の奇妙な行動のせいで、結婚を控えていた恋人から別れを告げられる。 しかも、その時すでに、娘の胎内には子どもが宿っていた。彼ら3人と主人公との交流が、それぞれの視点から語られていく。

  とこのように、あらすじを紹介してもほとんど意味がないのが、この本だ。ストーリーに意味があるというよりも、まったく異なる生き方をしてきた3人の人 間が、主人公の「すべての人を平等に悼む」という奇妙な行動と出会って、それをどう理解し、どう変わっていくか-というのが、この本の醍醐味だからだ。と はいっても、観念的で読みづらい小説ではない。登場人物たちの生活や感情が生き生きと描かれ、物語としても申し分なくおもしろい。それにしても、最後まで 読み通してみて、自分の死生観、人生観が問われるという、重たい経験をせずにはすまない作品でもある。
  私が「悼む」という行為に関心を持つのは、自分が死刑の問題と関わっているからだ。私は死刑問題を通して、被害者の死や遺族の苦しみと向き合ってきた。 死刑賛成の意見でよく聞かれるのが、「死刑でなければ、被害者(ほとんどの場合は死者だ)が浮かばれない」、「被害者遺族の感情は、死刑によってしか癒さ れない」という意見だ。人は残虐な事件を見聞すると被害者(遺族)に自分を重ねていきどおり、加害者の処罰を叫ぶ。それは自然な感情だ。
  だが、この小説の主人公は、「加害者を憎むと、憎しみにとらわれて、被害者のことを忘れてしまう」といって、加害者のことには関わらない。ただ、亡く なった人が「誰を愛したか、誰に愛されたか、どんなことで人に感謝されていたか」を知れば、その人を覚えて、「悼む」ことができると言う。彼は、いかなる 宗教にもよらず、多くの人の死を悼みつづける中で、このことを見いだした。そこには確かに、死者を「覚える」こと、その死を「悼む」ことの本質があるよう に思う。生と死を真剣に考える人には、ぜひ読んでほしい1冊だ。

柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)

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