【 書 評 】 『友だち地獄』 土井隆義 /ちくま新書710 /2008年

  私には20歳と18歳の息子がいる。二人の性格は対照的だ。上の子は夢想家でマイペース、下の子は現実的で他人に気を使うタイプだ。その下の子と、ある 夜、話しこんでいるうちに、人間関係についての彼の考えがどうにも理解できなくて、頭を抱え込んでしまった。その時、息子に「この本を読めば、少しは分か るんじゃない?」と言われて読んでみたのが本書だ。
  本書の副題は「『空気を読む』世代のサバイバル」。誰からも傷つけられたくないし、誰も傷つけたくない。孤立したくはないが、重たすぎる関係は持ちたく ない。自己主張はしたくないが、無視されるのもいやだ。そんな難しい人間関係を生きる、現代の若者たちの姿を描いている。

  本書のカバーには、本文からのこんな抜き書きがある。「…人間関係の息苦しさは、ある中学生が創作した『教室は たとえていえば 地雷原』という川柳に も巧みに表現されている。しかし、彼らは、その人間関係から撤退する選択肢をもちあわせていない」。今の子どもたちにとって、同じクラスで学ぶ友だちとい えども、決して気を許すことができない相手だ。一つ間違えると、たちまちみんなから孤立してしまう。だから彼らは、人間関係に過剰なまでに気を使い、地雷 を踏まないようにソロソロと、学校生活を送っているのだ。
  著者によれば、その原因の一つは、いわゆる「個性化教育」にある。それまでは、「すべての子どもの学力を伸ばす」ことが学校教育の目標だったが、1980 年代に入って、日本の教育政策は「個性の重視」「生きる力」「考える力」など、明確な基準のない目標を掲げるようになった。子どもたちは「自分の潜在的な 可能性や適性を自らが主体的に発見し、それぞれの個性に応じてそれらを伸ばすように求められる。言い換えれば、1980年代以降の子どもたちは、自分で自 分の価値観を作り上げなければならなくなった」。それが、子どもたちの人間関係を混沌としたものに変えてしまった-というのだ。

  たしかに、「自分の頭で考える」「自分の個性を伸ばす」という目標は当然だ。そのためにはまず、基準となる価値観や、基本的な考え方を学び、そこから自 分なりに考える方法を身につけていかなければならない。だが、何ごとにも極端な日本社会のこと。「個性化教育」とは、どんな価値観も考え方も教えず、子ど もたちが持っているものだけで考えさせること、と解釈された。かくして子どもたちは、野放しにされ、自分の力だけで考え抜き、生き抜かなければならなく なった。それが、現代の若者たちの特徴と言われる、あてのない「自分さがし」へとつながっている-と著者は言う。
  それは、子どもだけの話ではなく、大人の世界でも同じだ。首相に求められるのは「キャッチフレーズ」のわかりやすさだけで、政治哲学など何もない。見識 も持たない経済界のトップが、教育や政治に口を出す。庶民はと言えば、お笑いだグルメだエステだと、その場その場を楽しむことばかり。そこには、議論に耐 えうる価値観など何もない。いい年をした大人まで、「本当の自分はこんなものじゃない」と、何歳になっても「自分さがし」に忙しい。かくして、「最近の若 者は何を考えているのか…」と嘆くばかりで、子どもの現実を見て、導こうとなどしていないのではないか(私自身も含めて、だが)。

  1980年代以降の近代社会は、グローバル化・個人主義・市場主義の強まりによって、人間関係が希薄化している-というのが、最近の社会学の通説だそうだ。ならば、「空気を読む」子どもたちの人間関係は、まさに時代の産物に他ならない。
  本書を読んでいて、あまりに息子の言い分とそっくりなので、不謹慎だが思わず笑ってしまった。だが、それ同時に、日頃若者たちと接していて感じていた違和感が、多少は消えたように思った。親である以上、「今の若者は、何を考えているのか分からない」などと、嘆いているわけにはいかない。地雷は踏むかもしれないが、しばらくは、彼らの世界に踏み込んで考え続けてみたい。

柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)

Comments are closed.