【 リポート 】 聖イグナチオ生活相談室の取り組み

吉羽 弘明 SJ

聖イグナチオ教会での貧困者支援の動き
  昨年1月、カトリック司教協議会社会司教委員会は一つのアピールを発表した。このアピール・「2009いのちを守るための緊急アピール」は、最近の経済 状況に伴い失業者や自殺が多くなっていて、以前からの貧困者を含めてカトリック教会が支援団体との協力もしながら、何らかの行動を期待すると呼びかけてい る。
  日本のカトリック教会でこの種のアピールが出されても、行動に移すことは必ずしも多いとはいえない。聖イグナチオ教会もそれは同じで、先駆的な働きをし てきた団体はあるが、時々行動に移すことのリスクばかりを考えて二の足を踏むことも少なくない。ホームレスがそんなに集まったら衛生的に問題はないか、そ れを問題視する信徒はいないか、うそをついて私たちを騙す人がいるのではないか、炊き出しが終わってもずっと教会に居座る、あるいは好ましくない行動をと る人が出るのではないか、彼らに食べ物を提供するのは「怠惰」な状態を助長するだけになる…。
  聖イグナチオ教会では、このアピールを受けて私たちが貧困者にどのような支援ができるのかを問う「アピール小委員会」が主任司祭のイニシアチブで作られ た。リスクばかりを考えるのではなく、弱い立場にされている人を前に何をするのかという視点に立ったこと、また以前から貧困者のための活動していた人だけ でなく、今まではそのような活動に無縁だった信徒、外国人信徒の共同体や信徒でない人も参画した点で、非常にユニークな動きとなった。イエズス会35総会 教令の一つのテーマは「協働」であるが、私たちが協働者を導くだけでなく、実際小委員会に参加している人たちの柔軟な考えによって会員自身が多くを学ばさ れてきた。  
  小委員会は一年にも満たない期間で、貧困者を支える活動のための募金活動(募金箱の設置、バザーの実施、チャリティーコンサート実施)貧困者への直接的な活動(教会内で以前から行っている炊き出しへの協力、貧困者と祝うクリスマスパーティー、貧困者のための相談室の設置、散髪サービス、お米を集めて炊き出しに使うなど)貧困者を取り巻く問題についての教育的活動(もやい・稲葉氏の講演会、自殺についての講演会)などの活動を次々と行ってきた。
  貧困者のための相談室設置は、どの貧困者の支援団体も最近は著しく相談者が増加しているので、こうした他団体をサポートすることも視野に入れてアピール 小委員会の中で提起された。ソーシャルワーカーとしての働きもするようにと4月に聖イグナチオ教会に派遣されたばかりだった私も、相談室立ち上げに参加し た。教会の運営協議会では相談室に対する異論は特になく、むしろ好意的な意見も出されて設置が決まった。

生活相談室の発足と活動の経緯
  相談室は2009年9月から本格的に活動を開始した。この相談室の名前については、最終的に聖イグナチオの名前をいただいた「聖イグナチオ生活相談室」 (以下、生活相談室)と名付けられた。巡礼者である聖イグナチオ、またイグナチオが差別された人々とのかかわりも持ってきたことからである。全員で6人の スタッフ(ボランティア)で、このうち3人は精神保健福祉士や社会福祉士の資格も有しており、社会福祉の専門性も担保された。
  生活相談室は当初、生活保護申請のサポートを中心に行っていく予定であった。福祉事務所ではしばしば、生活保護の申請をさせないために意図的に適切な情報を提供しなかったり、難しいことを言ってその意欲を削いだりすることがある。
  ある福祉事務所に生活保護の申請に同行した時、職員は申請をしようとする野宿者に「(住民票のある役所に)今日が申し込み締め切りの定額給付金(そのこ と自体嘘だった)を申し込みに行きなさい」と強く勧めた。そのように「目先のお金で釣って」ごまかすやり方を往々にしてする。
  しかし知識のある支援者が同行すると、福祉事務所は態度を一変させることが多いから権利擁護という面で大切な活動になる。
  相談者数については、正直に言えば教会という敷居の高さからそれほど多くなるとは考えていなかった。しかし事前の予想とは異なり、最初少なかったものの すぐに、相談日(月曜日)と炊き出しが重なったこともあってどんどん相談者数が増えて、昨年末までの約3か月間に50名の相談があった。相談者の多くが炊 き出しにいらした方だったが、それ以外に教会と何かのかかわりがあったり、教会なら何かしてくれるだろうと教会の受付などにいらして生活相談室につながっ た方や、ネットで生活相談室の存在を知った方もあった。

相談活動から気づいたこと
  ないということであった。他の支援団体で少しばかりボランティアをしたことがあるから、もちろんそのようなことはある程度予想していたのだが、それは恐れすら感じさせるシビアさがあった。
  まず、社会構造は立場の弱い人々を容赦なく排除するということである。病や障害のある人、外国籍であること、学歴がないことなどが何らかの形で貧困とつ ながっている人は予想外に多かった。自分を売り込めない不器用な人は、生きにくい状況にもなっていることも浮かび上がった。
ホームレスの中には、騙されて借金を「作らされている」人は少なくない。病や障害、あるいは他者から排除されることを経験することで他人に必要以上に依存的になっている状況を目ざとくとらえ、わざと弱々しい姿を見せて借金を負わせているようなこともある。
  心の病によって貧困になったり、あるいはその逆に長い貧困生活によって精神状態が悪化している人も多い。心の病の場合、意欲に悪影響を与えることが多 い。何をやってもうまくいかないことが続くと自分を攻撃し始め、それが自殺(未遂も含め)になったり、広範囲に物を見ることができなくなることによって 「もう打つ手はない」と絶望したり、何もしないということを通して自分を「痛めつける」ことも起こりやすい。そのためにその場しのぎ的な生活になって、将 来的な見通しをつけることができなくなっている人も多い。
  「もやい」の湯浅誠はこうした状況を「溜め」という概念を用いて説明する。貧困が経済的な剥奪だけでなく、潜在能力あるいは「溜め」が奪われた状態だと いうのである。教育、企業福祉、家族福祉、公的福祉からの排除とともに湯浅があげるのが、自分の尊厳を守れず大切に考えられなくなる「自分からの排除」で ある。先のような状態はまさしくそのような排除の下にあるといえるであろう。このような時に、その人の意欲のなさを非難したとしてもほとんど意味をなさない。
  「心の問題」というと、リストカット、自殺、興奮(怒り、多弁他)など見える形で行動化している状況が思い浮かぶのだが、「こうなったのはすべて自分が 悪い」と話して静かに、半ば呆然として自分を責め立てている人はとても多い。 こうした状況に陥った時に、私たちは多くの場合友人や家族などと話すことを 通して課題を解決したり、あるいは解決がすぐできない場合でも愚痴ったりすることで解消するという方法を知っている。しかし、貧困者はそうした「つなが り」が切断されている場合が少なくない。「友人が1人、2人」というケースはまだ良くて、周りに誰も知り合いがいないことも多いから、ますます心の問題か ら抜け出られないのである。
  北海道大学の宮本太郎は著書の『生活保障』(岩波新書・2009年11月)で、現代の貧困の問題として「『生きる場』の喪失」をあげている。宮本は、人 は様々の場での他者からの配慮と承認を受け、誰かを目標にしながら生きる意味や気力を得るのだが、雇用の流動化、家族やコミュニティーが急速に求心力を失 い、あらゆる社会的関係が個人を取り込めなくなっていて「個人化」していることを指摘する。
  「個人化」は一面で人々の自由を拡大するが、雇用から完全に放り出されて所得がなくなれば、逆に何かにすがらなければならなくなって自律性が低下すること を指摘している(11ページ~15ページ)。ここでも、人とのつながり(宮本もいうように「愛国心」などを通してでなく)が、人間にとっての尊厳を守るた めにも不可欠であることが示されている。
  福祉による個別の支援が弱いこともよく感じることである。福祉事務所の職員が、当事者の細かい状況を見ずに、ただ「とにかくハローワークで懸命に仕事を 探せ」と指示したり、障害のために困難な状況に置かれているのにその背景を見ようとしなかったり、その結果支援の谷間に落ちていろいろな場に転がり込んで はそのたびに収奪されているケースもあった。
  福祉事務所職員の暴言や珍説を聞かされることも往々にしてある。先に示したような「目先のもので釣る」ケースや、「あんたたちはそうやってホームレスを 『連れてきて』気持ちいいだろうが、こっちは迷惑だ」との発言を聞く場面に遭遇し、職員が自身の業務に自信を持てていないと見受けられるケースもあった。
  こうした状況をただ「職員が怠惰だ」と批判するだけでなく、この職員たちがこのようなひどい状況になっているのも多くの背景(職員の社会福祉の専門性を 育まない行政、相談者に対して少な過ぎる職員数など)に囲まれているのだととらえて、どのようによい社会を築くために協力していくのかという観点も重要だ と感じている。実際、ケースワーク能力のある優れた職員にも出会い、うまく連携が取れているケースもある。

今後の活動の展開
  このように相談活動から、たとえ福祉での支援を受けている時も精神的なサポートが必要であることが浮かび上がり、現在は相談者の住まいを訪問したり、あるいは定期的に教会で会って近況をうかがうような活動が不可欠と考え、その点にも力を入れている。
  また、宮本太郎のいうような、人にとって他者からの配慮や承認のある「居場所」は人が生きていく上でかなり重要なものであるのに、貧困状態に置かれてい る人はそのような場を持っていないことが多い。これからは、日中することのない人・悩みで困難さを感じる人がふらっと寄れて、時には自らの苦悩なども話せ るような場の設定が必要だと感じている。実際今の相談室は、近況を話しにいらっしゃる相談者と相談員の和やかな会話の場になることがしばしばあって、既に そのような機能も果たしつつある。

社会への参画・復権ができるためのサポートを目指して-教会のチャレンジ

  小委員会が企画・運営した「貧困者と祝うクリスマスパーティー」で、あるホームレスの男性はこう教会のボランティアに話したという。
「クリスマスのプレゼントや食事より、あのでっかいところ(主聖堂のこと)に入れたのがうれしかったんだよ」
  ボランティアは、食事の味とかプレゼントを受け取り満足してもらえたかに興味があったので、この発言を聞いて拍子抜けしたという。このホームレスは、普 段入ってはいけないと思っていた聖堂に迎えられ、そのことを通して自分のことを大切にされたことを感じたのかもしれない。このことに象徴されるように、 「尊厳を守ること」が人にとって最も重要だと感じたという。
  私たちの社会は、分断を通してある種の事柄を遂行しやすくしたり、底辺の人を作り上げることを通してある種の人を守ったりし、その結果ある人たちは排除 されてきた。グローバリゼーションはそれに拍車をかけた。35総会教令は、「境界線を越える橋をかけるのがイエズス会の伝統」と指摘している。またイグナ チオと最初の同士が、不和に陥った人を和解させようと努めてきたことも指摘している。

  炊き出しをして、先に示した「衛生的な問題」も「教会から帰らなくなる人が出る」こともなかった。単に、ホームレスを全然信用していないだけのことであった。
  困難のある人に対して、弱い私たちが自分たちの限界に苦悩しそれを味わいつつも、直接的な行動と、更には社会から「追い出されている人」が社会の一員と して尊重されるために行動すること。違う状況にある人ととも、その人たちを信頼して、協力し、「境界線を越える橋をかけて」希望に満ちた場を教会を含む社 会の中に作り出そうとすることが、これからも課題となってくると考えてるいる。

「神が創造された世界には、さまざまな人がいる。すべては善いものである。神の被造界は愛すべきであり、豊かな美しさに満ち溢れている。一緒になって働き、笑い、栄えている人々は、わたしたちのうちに神が生きておられることのしるしとなっている。」(35総会第2教令22)

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