【 解放の神学 】 キリスト教基礎共同体と解放の神学

ホベルト・バーホス・ディアス SJ(ブラジル)

  ブラジルのイエズス会員、ホベルト・バーホス・ディアス神父が、「ラテンアメリカ・キリスト教ネット」(ラキネット)の招きで、2010年9月20日~10月12日に来日し、各地で講演や交流を行いました。
  ホベルト神父は43歳。ブラジル北東部のパライーバ州ジョアン・ペソで、イエズス会ジュニオラード(いくつかのイエズス会管区が合同で神学生を養成する学校)の教育コーディネーターを10年務めながら、地元教会のスリスト教基礎共同体と深く関わってきました。
  ホベルト神父を招いたラキネットは、ラテンアメリカの民衆やそのキリスト教を学び、交流・連帯することを通して、信仰のあり方を見直していくことを目的として、2006年10月に発足しました。かつて世界の注目を受けたラテンアメリカの「解放の神学」は、日本からは見えにくくなっていますが、現地では草 の根の聖書学習運動などを通して活発な活動を展開しています。このようにラテンアメリカでイエス・キリストの福音に生きる人々の信仰の息吹と喜びを受けとめ、ラテンアメリカの友人たち、とくに圧倒的多数を占める貧しい人々との真実な連帯のあり方を明らかすることを目指しています。ラキネットは、日本とラテ ンアメリカのキリスト者の相互の交流と理解、さらに連帯をめざして、①ブラジルの人々との交流②ブラジルの聖書学習運動の研究・紹介・翻訳出版③広報を三本柱に、活動をすすめていくエキュメニカルな組織です。現在、会員は82人です。[http://www.latinamerica-ch.net/]
  ラキネットの世話役、大倉一郎氏はかつて、イエズス会社会司牧センターが主催していた解放神学研究会で共に学んだご縁があり、今回のホベルト神父の来日に際して、東京での宿泊や上智大学での講演に関して、当センターも協力しました。今号では、2010年10月1日に上智大学で行われたホベルト神父の講演をご紹介して、ラテンアメリカ解放の神学の今をお伝えします。

ブラジルのカトリック教会
  キリスト教基礎共同体や解放の神学について知りたいと、ブラジルに来られる方によく出会います。しかし、共同体の生活を実際に体験せずに、こうした問いの答えを得ようとするのは、キリスト教基礎共同体や解放の神学について何も分かっていないことに他なりません。私はキリスト教基礎共同体を体験してきた者として、この数十年間にブラジルで起きたキリスト者の実践について、皆さんにお話ししたいと思います。
  ブラジルは大きな国で、国民や社会、文化、宗教も非常に多様です。1500年にポルトガル人が渡ってきたときには、約500万人の先住民が暮らしていました。その後、アフリカから奴隷として連れてこられた人々が150万人、ヨーロッパから来た白人が200万人、移り住みました。その300年後には、先住民は100万人に減りました。他方、その後の300年間に連れてこられたアフリカ人の奴隷は600~1200万人と言われています。現在の人種構成は、白人53.7%、混血38.4%、黒人6.2%、先住民族0.4%、アジア系0.4%となっています。
  植民地時代には、ポルトガル王国が教会を統治しており、ローマから遠く離れている上、司祭も足りないため、民衆主体の独自なカトリック教会が発展しました。1889年には、ブラジルはポルトガルから独立し、バチカンはブラジルのカトリック教会の統治に乗り出しました。しかし、4世紀にわたる独自な発展の結果、ブラジルのカトリック教会は、正統な信仰と民衆信仰が混じり合った、独自の信仰を今も伝えています。
  他方、ポルトガルからの独立以降、政府と教会は腐敗や圧政に関して共犯関係にありました。しかし、1964年に軍事政権が成立してからは、ブラジルのカトリック教会は、政府の抑圧や人権侵害、言論と新教の自由の剥奪に抗議し、抑圧されている民衆の側に立つ姿勢を明確にしました。このような歴史的背景のもと、解放の神学とキリスト教基礎共同体が発展したのです。

キリスト教基礎共同体:教会の新しい形
  第二次大戦後のブラジルでは独裁政権が崩壊し、自由民主主義と資本主義のもとでの、急速な経済発展が進みました。同じ時期、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレが提唱した、抑圧された人々を教育によって解放する「被抑圧者の教育学」が、急速に影響力を増しました。
  他方、カトリック教会では第二バチカン公会議(1962~65年)がプロテスタント諸教会との関係改善や、現代社会への門戸開放を打ち出しました。ラテ ンアメリカ教会もこの方針に沿って、1968年にメデジンで開かれたラテンアメリカ司教会議で、貧しい人々の立場に立つことを、ラテンアメリカ教会の中心課題とする決議を採択しました。
  1964年に軍事政権が成立すると、独裁政治のもとで経済が急速に発展する一方で、民衆に対する抑圧と人権侵害もひどくなりました。民衆の側に立つカトリック教会にも圧迫が加えられ、多くの信者や神父、修道者が投獄され、殺害されました。そんな中でも、教会は民衆と共に働き、信仰を深め、典礼を行い、民 衆を組織化する「意識化の場」であり続けました。このような教会の姿勢を支えたのが、解放の神学とキリスト教基礎共同体でした。
  キリスト教基礎共同体の起源はさまざまで。唯一のモデルといったものはありません。第一のタイプは聖書を読むために集まった信徒のグループです。彼らは、神のみことばと現実生活を結びつける必要性を感じていました。こうして、自分たちの苦しみを引き起こす現実問題を知り、聖書の民が生きていた時代背景を学ぶために聖書学習に戻るという、ダイナミックな循環を繰り返しました。
  第二のタイプは逆方向から、つまり土地や住居の権利を要求するという現実的な必要から集まったグループです。彼らは聖書を読んで、出エジプト記で奴隷からの解放を求めた神の民に、自分たちのアイデンティティを見出しました。
  他にも宣教師やシスターたちの教会での奉仕活動から生まれたグループもありました。

解放の神学と教会論
  このようなキリスト教基礎共同体は、伝統的神学の教会論と、第二バチカン公会議が打ち出した新しい神学を一つにまとめています。キリスト教基礎共同体が 参考にしているのは、初期のキリスト教共同体です。司祭中心のヒエラルキー(位階制度)に対して、信徒の教会活動への積極的な参加と役割分担を促進することが、キリスト教基礎共同体のアイデンティティです。
  第二バチカン公会議は、「神の民」についての神学に大きく貢献しました。第一に、教会は世界の中にあることに注目しました。次に、「神の国」という概念に神学的な価値を見出し、神のみことばは教会生活の中でこそ明らかにされることに気づきました。さらに、典礼の刷新や信徒の教会活動への参加を進めました。こうした変革によって、キリスト教基礎共同体は自らを、「旅する神の民」と自認するようになったのです。キリスト教基礎共同体が用いるpovo(民 衆)とは、ばらばらな群衆ではなく、明確な参加意志を持った人々の集まりであり、出エジプト記で約束の地を目指して、共同体として歩み続けたイスラエルの 民ときわめてよく似ています。
  第二バチカン公会議のもたらした変革を詳しく見てみましょう。第一に、教会は「神の国」をこの世に実現させるために奉仕すべきだ、と主張しました。「神の国」の到来とは、この世において神の救いが実現することであり、教会は「神の国」の所有者というより、その「しるし」なのです。
  第二に、教会の役務(ministry)は、法的に固定されたものだけではない、と主張しました。教皇パウロ6世は、司祭に叙階されていない信徒たちにも、ふさわしい奉仕の場を認めました。この姿勢は教会内に賛否両論を巻き起こしましたが、キリスト教基礎共同体は、聖書学習や祭儀、教会生活や地域生活において、さまざまな奉仕者を育ててきました。

キリスト教基礎共同体の実践
  キリスト教基礎共同体の神髄は、こうした奉仕者による実践活動です。そもそもキリスト教とはイエスに従う実践に他なりません。ある共同体が生活の中で、目に見える形でキリストに従う実践を行うなら、共同体はキリストの姿に形作られます。共同体のバイタリティは創造性と実践の豊かさです。
  保守派の人々は、こうしたキリスト教基礎共同体の実践を、信仰とかけ離れた政治運動だと非難します。しかし、キリスト教基礎共同体にとって信仰と生活、神のみことばと社会的責任とは分かちがたく結びついているのです。こうして、解放の神学とキリスト教基礎共同体は、ブラジルに新たな政治文化を創りました。土地なし農民の運動や先住民への司牧、黒人運動などの形成を助け、労働党の創設にも影響を与えたのです。
  解放の神学とキリスト教基礎共同体の大きな柱は「貧しい人々の選択」です。福音を読むと、神が貧しい人々を優先して愛されていることがわかります。イエスは貧しい人々に福音を説き、貧しい人々を弟子に選び、貧しい人々と生活を共にし、極貧のうちに死にました。貧しい人々は、単に神の国に優先的に迎えられるだけではありません。1979年にプエブラで開かれたラテンアメリカ司教会議は、こう述べています。
  「貧困と抑圧にあえぐ人々との約束と、キリスト教基礎共同体の誕生、この二つのことは、教会が貧しい人々に福音をのべつたえる者となる可能性を発見させてくれます。というのも、貧しい人々が絶えず教会に呼びかけ、方向転換するよう招いているからです。貧しい人々は生活の中で、連帯の心、奉仕、素朴さ、神 の賜物を受け入れる開かれた心といった、多くの福音的価値を生きています。そのことを通じて、貧しい人々の存在自体が教会に回心を促しているのです」
  有名な解放神学者レオナルド・ボフは、著書の中で、「貧しい人々の選択」とは、貧しい人々を単なる同情や慈善の対象と見なすことではなく、彼らが自らの 歴史の主人公となるよう、その解放に協力することだ-と述べています。社会的責任を負うキリスト者の役目とは、約束の地を目指して旅する貧しい人々と共に歩むこと、社会を変革し、貧しい人々の解放を実現するために協力することなのです。

現代の問題点①何が見えているか
  教皇ヨハネ・パウロ2世の長い在位期間(1978~2005年)の間に、ラテンアメリカの政治・社会情勢は大きく変化し、20世紀末から21世紀初めにかけて、解放の神学とキリスト教基礎共同体は変化せざるを得ませんでした。
  解放の神学とキリスト教基礎共同体は、マスコミにとっては見えにくい存在であり、教会の公文書にもほとんど登場しません。20世紀のカトリック教会は、第二バチカン公会議の成果に対する否定的な評価で幕を閉じました。1990年代には第二バチカン公会議の熱気は失われ、典礼も神学も、教理の面でも後退しました。かつて重視されていたヒエラルキーは今なお力を保ち、教会本来のカリスマは、制度としての教会の指導と個人的な救いの重視という枠の中に閉じ込められて、動けなくなっています。現代の新しい宗教指導者たちが好んで用いることばは「解放」ではなく「回心」であり、「闘い」ではなく「癒し」なのです。
  他方で、解放の神学とキリスト教基礎共同体がもたらした変革の動きは、教会の中でそれなりに続いています。ブラジルのアパレシッダで2007年に開かれた、最近のラテンアメリカ司教会議は、ラテンアメリカの教会における「貧しい人々の選択」とキリスト教基礎共同体の存続の重要性を、明確に述べています。「キリスト教基礎共同体は民衆にみことばをよりよく理解させ、福音の名のもとに社会的責任を果たすよう励まし、新たな信徒使徒職を生み出し、成人の信仰教育を促進しました」
  しかし、再び特権を持つようになったヒエラルキーは、第二バチカン公会議以前の教会へと逆戻りしようとしています。私からすれば、キリスト教基礎共同体や社会司牧に復活の兆しが見えてきている現代においては、こうした古い教会への逆行は、時代にそぐわないように感じます。キリスト教基礎共同体と解放の神 学は、21世紀にラテンアメリカ教会でどのような役割を果たすのでしょうか?キリスト教基礎共同体とカリスマ運動を比較しながら、考えてみたいと思いま す。

キリスト教基礎共同体と解放の神学

  1. 信仰を実践しながら生きる。
  2. 倫理と政治との関係、奉仕を重視する。
  3. 社会変革を求める。
  4. 思いめぐらすこと=黙想を重視する。
  5. 貧しい人々を選択する。
  6. 世界の中にある。
  7. 地域の教会と結びついている。
  8. 制度的教会の刷新を目指す。

カリスマ運動

  1. 信仰を体験しながら生きる。
  2. 神学と祈りを重視する。
  3. 個人の回心を求める。
  4. 感情や気持ちを大切にする。
  5. 「失われた羊」を探す。
  6. 教会の中にある。
  7. 普遍的教会と結びついている。
  8. 教会の社会的地位の確立を目指す。

現代の問題点②何が見えなくなっているか
  1970~80年代にヒエラルキーの外側に存在していたキリスト教基礎共同体と解放の神学は、今なお存在し続けています。もちろん、社会や政治、宗教の状 況に合わせて変化してきましたが、今日でもラテンアメリカの信徒や司祭の多くが、「貧しい人々の選択」を日々の生活や司牧活動の中で実践している姿を見ることができます。今日、道徳や正義を実現するために闘っているブラジルの労働組合や左翼政党の指導者の多くが、教会で育った人たちです。また、女性や子どもの権利擁護、協同組合などのために働く市民団体を支えているのは、キリスト教基礎共同体に属する人々です。
  彼らの関心事は、新自由主義がもたらす社会と経済の不正な現実を、どう正していくかということです。その実例として、矯正司牧(受刑者への司牧)、資源 回収で暮らしている人々への司牧、黒人やAIDS患者への司牧、子どもたちへの司牧、聖書学習会、新しい教理教育、文化に即した典礼などが挙げられます。 私は、これらすべてがキリスト教基礎共同体生きている姿であり、解放の神学が求めることを表現する一つの共同体であると思います。
教会主流派からは好意的には受け止められていませんが、2009年7月にホンドニア州ポルト・ベーリョで、第12回ブラジル・キリスト教基礎共同体全国 大会が開かれました。これは、ブラジルのアパレシッダで2007年に開かれたラテンアメリカ司教会議と共に、特筆すべきできごと、大規模な「いのちの祭典」でした。2010年5月のブラジル司教会議で、司教たちはこのブラジル・キリスト教基礎共同体全国大会についてこう述べています。
  「私たちはキリスト教基礎共同体が教会の生命力のしるしであり続けていることを、改めて強調したいと思います。キリストの弟子たちは共同体に集い、みことばに注意深く耳を傾けています。それは兄弟愛をいっそう強め、生活の中であらわれる不思議なできごとを分かち合い、社会をよりよいものとするための働き を担っていくために他なりません。メデジンのラテンアメリカ司教会議が述べているように、『キリスト教基礎共同体は教会の根本的な核であり、教会組織の基 本的な細胞であり、福音宣教の中心、現代における人間化の基本単位です』」

現代の問題点③チャレンジとケアの霊性
  ブラジルは今や世界のリーダーをつとめる国々の一つとなりました。この20年の経済市場の急激な変化は、カトリック教会、とりわけキリスト教基礎共同体に 大きなチャレンジを突きつけています。それはグローバル化と急激な都市化、市場に都合のよいテクノロジーの進歩です。今の時代に大切なのは市場であり、経済力を持たない者は取り残されます。ブラジルでも他の国々でも、貧しい人々は経済的な恩恵に浴することができないばかりか、社会から締め出されています。

  このような排除は、暴力事件の増大や麻薬による逃避をあおっています。グローバルな都市、市場経済が支配する社会に、共に生きる関係、共に働く連帯の関係 を再生させるためには、どうすれでよいでしょう。バーチャル(虚構)に生きる個人主義者が多い現代に、どのように神の国を伝えることができるでしょう。
  キリスト教基礎共同体の中で働く霊性は、神の本質とは三位一体の交わりであると理解します。現実は交わり(コイノニア、コムニオ)によって成り立ち、生きとし生けるすべてのもの本質も交わりです。
  交わり(コムニオン=ミサ)こそが、私たちを神の教会へと作り上げるものです。ですから、一人ひとりをケア(世話)しない霊性などあり得ません。言い換え れば、神が人間一人ひとりをケアして下さるように、私たちも互いにケアしあうとき、そこに聖霊が存在します。ケアは愛の実りです。このように、普遍的な無 償の愛が、キリスト教基礎共同体に中に働くケアの霊性として現れてきます。
  キリスト教基礎共同体は人々の信仰をケアします。消費主義や個人主義が支配し、信仰とは何かがどんどんあいまいになっているブラジル社会において、キリスト教基礎共同体は人々を励まし、受け入れ、尊重し、福音に根ざした「いのちの掟」-神を愛し、隣人を自分のように愛するという掟を、価値あるものとして 守ります。
  また、キリスト教基礎共同体は連帯と奉仕を奨励します。貧困や困難にあえぐ人々に教育を与え、傷ついた人々をいやし、パンを増やして分かち合い、人々を助け合いと交わりへと導き、そうした働きによって「いのちの神」を証しているのです。
  さらに、キリスト教基礎共同体はあらゆるもののいのち、地球のいのちを大切にすることも教えています。同時に、経済の本来の意味-社会の中で、家族が人間らしい生活を営むための活動-を取り戻すことができるよう、民衆の経済互助グループへの参加を勧めています。
  最後に、キリスト教基礎共同体は他の宗教との対話も勧めています。対話の霊性は、兄弟愛の一つとしてキリスト教基礎共同体がずっと保ち続けているものです。私が属する小教区においても、貧困問題という共通の課題について、他宗派の人々と協力して取り組んでいます。

ことばは肉となって、私たちの間に宿った
  みことばを聞くことと、信仰共同体の生活を生きることは、キリスト教基礎共同体において不可分のことです。みことばは共同体の日々の生活の中で読まれ、 社会の不平等や不正を乗り越えようとする行動の中にも、みことばは存在しています。人々はキリスト教基礎共同体に教会の主体として参加し、社会における自分の役割を果たします。キリスト教基礎共同体の信徒中心主義とは、教会が聖霊の息吹によって新たに生まれかわる証であり、新たな信徒使徒職が生まれている しるしです。
  「21世紀には、霊性を持たなければ人間的ではない。21世紀のキリスト者は、社会から排除された人々を選択しなければ、キリスト者とはいえない。21 世紀のキリスト者は、エキュメニカル(超教派的)でなければ、教会の一員とはいえない。21世紀は、環境保護を第一に優先しなければ、単純に存在し得な い」(D.P.カサウダリガ)

*この原稿は、講演で通訳をつとめた小井沼眞樹子(こいぬままきこ)牧師(日本基督教団ブラジル宣教師)からご提供いただいた通訳原稿から作成しました。ご協力を深く感謝します。

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