【 エコロジー 】イエズス会とエコロジー

安藤 勇 SJ (イエズス会社会司牧センター)

  エコロジーや環境の問題にこたえることは、イエズス会第35総会が強調したミッションの一部ですが、その実現のため、「イエズス会のミッションとエコロジーに関するタスク・フォース」が、2010年に設置されました。
  ページに限りがあるので、昨年10月22日にタスク・フォースがまとめた文書を簡単にご紹介します。
世界におけるイエズス会のミッションと気候変動や天然資源の濫用などの環境問題についての考察は、人類の未来に関わる諸問題に取り組む際に、時のしるしを読み解くための中心的な要素です。
  イエズス会のカリスマと使命は、生き方を一新すること、学問的・霊的関わりや現代に即した養成にチャレンジすること、生命の豊かさに共にあずかる創造主 の協力者(co-creators)として、被造界(creation)への深い関わりを表明することを求めます。イエズス会員は、信徒協働者や諸運動と 共に、国内で、地域で、そして世界規模で、環境を尊重し、ことばと行いによって環境に対する責任を取るべく、より幅広く探究しながら、癒し手 (healing centers)としての自覚を持って行動する必要があります。

エコロジーとイエズス会のミッション
  最近3回の総会で、イエズス会のミッションとは、互いに分かちがたく結びついた「信仰への奉仕と正義の促進」であると定義されました。また、「私たちと文化や宗教が異なる人々との対話は…キリストのミッションへの奉仕にとって不可欠である」と述べています。

被造界への配慮 -イエズス会のミッションの進展
  この15~20年間、イエズス会ではエコロジーへの関心が高まってきました。第34総会(1995)第20教令 にこたえて、当時の総長ピーターハンス・コルベンバッハ師は、社会正義事務局に対して、『壊れた世界に生きるわたしたち-エコロジーについての考察』と題 する文書の作成を指示しました。コルベンバッハ師はこの文書の序文で、イエズス会が第33総会(1983)ではじめて、環境に対する関心について「公式に 言及した」ことを認めています。1993~94年にかけて、いくつかの管区会議から、エコロジーに関する提案が届きました。第34総会はこれらの提案をとりあげましたが、その取り上げ方はそれほど深いものではありませんでした。
  第34総会(1995)から第35総会(2008)の間、社会の周縁化(social marginality)と環境災害が、互いに関連するできごととして経験されました。
  第35総会では、エコロジーと環境が重要な使徒職のテーマの一つに選ばれ、作業グループが検討した上で、総会に提出されました。総会では、エコロジーに ついてさまざまな角度から討議されました。作業グループが総会に提案したのは、エコロジーに関して独立した教令を出すかわりに、別の作業部会で準備してい たイエズス会のミッションに関する教令の中で、エコロジーについても扱うというものでした。この提案は認められ、第3教令「今日のわたしたちのミッション のチャレンジ」で、エコロジーのテーマが、より広い「和解」の文脈で-つまり、神との和解、人間同士の和解、被造界との和解という三重の和解の文脈で-取 り上げられることになったのです。

第35総会-三重の関係
  「第35総会は、第34総会が定義したエコロジーとイエズス会のカリスマとの関係に何か新しいものを付け加えたのか」という質問が、度々聞かれるのですが、答えは明らかに「イエス」です。
  第35総会以前のエコロジーのテーマについての取り上げ方とは異なる特徴が二つあります。一つは、第35総会が和解と正しい生き方とを比べていること、つ まり、信仰と正義という一対の組み合わせに和解という理念を取り入れていることであり、もう一つは、神との関係、人間同士の関係、被造界との関係という三 種類の関係の間の本質的で不可分な一致を築こうとしていることです。
  第35総会第3教令は、「正しい」あるいはふさわしい関係についての新たな 理解に基づいて、神との正しい関係、人間同士の正しい関係、被造界(地球)との正しい関係を築くよう招かれている(第3教令18項)という、イエズス会の ミッションについての見方を示しています。このようなイエズス会のミッションについての見方の新しさは、おそらく次の二つの洞察から明らかになるでしょう。
  第一に、イエズス会のエコロジーと被造界に対する関心は、何よりもまず二つの関係、つまり、神との関係や人間同士の関係という文脈で理解されなければな りません。言いかえれば、地球との(あるいは神や人間との)新しい関係を回復することは、神との正しい関係を築く取り組み(信仰への奉仕)や、人間同士の 正しい関係を築く取り組み(正義の促進)の結果として理解されなければならないのです。第二に、イエズス会のミッションを遂行するためには、三種類の関係 の正しさ(正義に関わる要素)も同時に実現されなければならないということを、第3教令は十二分に明らかにしています。
  こうした三重の関係について分析するにあたっては、一方の神や被造界との正しい関係と、もう一方の人間同士や被造界との正しい関係の間で共有される、共通 の分野について考えてみることが役立ちます。被造界の完全性に対する攻撃は、まぎれもなく神の恵みの軽視であり、最終的には神そのものの軽視でもありま す。また、環境破壊は、人々の人権の行使と貧しい人々の生活に多大な影響を及ぼします。第3教令は簡潔な文書であるにもかかわらず、被造界への関心をイエ ズス会のカリスマへと取りいれようとするだけでなく、神との関係(信仰の要素)と人間同士の関係(正義の要素)に同時に影響を及ぼす、具体的な方法をも示しているのです。

被造界との和解と信仰への奉仕

被造界と過ぎ越しの神秘 -聖書的考察
  旧約聖書では被造界はつねに賞賛の的でした(詩編104:24)。神が創造された世界は「きわめてよかった」からです(創世記 1:4,10,12,18,21,25)。被造界は神から私たちへの贈り物ですが、罪によって傷ついているので、全世界は徹底的に清められるよう招かれて います(2ペトロ3:10)。受肉の神秘、すなわちイエス・キリストがこの世界の歴史へと身を投じたできごとは、過ぎ越しの神秘、つまりキリストが神や人 間、被造界との関係を新たに築いたできごとによって完成されたのです。「人間はすべての被造物を無条件に支配する権利を持っている」という主張も、自然界 を果てしない消費の対象とみなす還元論的・功利主義的イデオロギーも、「人間と他の被造物との存在論的・価値論的違い」を無視した自然観も、受けいれがた いのです。ですから、人間と環境との関係について説明するさまざまなモデルを正しく理解するためには、注意深く接するのがよいでしょう。
  しかし、現実には「多くの人間があらゆるレベルで自然を濫用して、神が創られた美しい世界を破壊しています…『私たちの母』なる地球の無責任な侮辱と無 分別な破壊が起きています」。「時のしるし」を見きわめることは、こうした自然との和解の必要性を体験する一つの方法です。神の恵みである自然が破壊さ れ、人々が苦しむのを見る時、私たちが深い悲しみを覚えるのは、まさに神への信仰のゆえです。私たちはこう自問せざるを得ません。「私たちは違うふうに行 動できなかったのだろうか?」
  世界をつかさどられる神と、苦難の後に従順に死を受けいれられたキリスト、そして内なる聖霊への信仰によって、私たちは回心し自分自身を変えるために行 動するよう招かれているのです。私たちは自然のよさと「神や自然との正しい関係」という道徳的なビジョンによって、神と被造界、人間との和解を生きる霊的 エネルギーを得るのです。私たちはもはや、この世を「よいもの」として創られた創世のわざや、私たちがいつも陥っている教条的な法律や道徳に縛られること なく、キリストに従って、すべての被造物に無私の態度で臨むよう導かれるのです。

教会の対応 -カトリックの社会的教え
  カトリック教会の社会的な問題に関する考え方をまとめた社会教説は、被造界との正しい関係を築くためのさまざまな実践原理を考え出してきました。環境へ の配慮はまず第一に、被造界を万人のための公共財と認めるところから始まります。こうした見方は、「生態系を一つに束ねるさまざまな要素の緊密さ」や、未 来の世代に対する責任、「天然資源は有限で、再生不可能なものもあるがゆえに、自然の循環をあるがままに保たなければならない必要性」を認めるために重要 です。

  万人のための公共財という原理は、「それらの財は正義と愛に基づいて、公平に分けられなければならない」ということであり、たとえば水がそうです。貧しい 人々の優先的選択は、「環境問題と貧困は互いに結びついており、その原因は複雑に絡み合っている」ことや、「現代の環境問題はもっとも貧しい人々を直撃し ている」ことを教えてくれます。連帯の原理は、政治家-特に発展途上国の政治家-を動かして、「途上国の国民に有利な貿易政策」を実現するよう求めます。 また、連帯の原理のゆえに、先進国の政治家は「科学技術の知識を発展途上国に移転する」よう求められます。最後に、私たちが直面する環境問題は、「個人的 にも社会全体でも、分別と自制に基づいた」ライフスタイルを採りいれるよう求めています。

イグナチオの霊性と被造界への配慮
  イグナチオの霊性、具体的には『霊操』は、被造界との新しい関係を発展させるためのインスピレーションの深い源です。イグナチオが霊操で最初に示したの が「原理と基礎」です。過去には、被造界を人間中心的な見方で見る傾向があったのに対して、私たちは今日、被造界は「神から与えられた資源であると同時 に、神に至る道でもある」ことを理解しています。私たちは、被造界との関係を注意深く識別し、偏らない心を持たなければなりません。つまり、被造物を神と の関係のうちに見る心の自由を育む必要があるのです。創造の神学の新たな、より深い理解は私たちに、「創造のわざは最初の偉大なる救いのわざであり、神の 根本的な救いのわざである」ということを理解させてくれます。このとき、救いのわざが創造のわざの文脈で理解されるのです。
  ご託身とご降誕についての観想は、創造された世界が神を体験する場であると強調します。ナザレという具体的な場所で生まれることで、イエス・キリストは 私たちと、被造物や生命、自然、私たちが吸う空気との深い関係を分かち合うのです。この観想の土台にある三位一体の視点から、被造界との関係とコミュニ ケーションのうちに生きるよう招かれているのです。

  二つの旗についての黙想は、「富や名誉、名声」の欺まんに直面する助けとなります。強欲や過剰な消費、天然資源や土地の利用(や悪用)、信じがたいほどの ゴミの排出と向き合わずにはいられないと感じるのも当然です。キリストの旗のもとに集うようにという招きは、質素さや謙遜さ、被造物のうちに神を見いだす ことへの招きなのです。神の愛を得るための観想において、イグナチオは黙想者に、被造物のうちに神がどのように内在しているかを見るよう求めています。「愛はことばよりも行いのうちに示されなければならない」というイグナチオの命令に従って、私たちは被造界との関係を修復するために、惜しみなく自分自身 を献げる必要があります。

被造界との和解と正義の促進

和解と正義の関係
  最近、紛争解決の分野で、和解という概念がより重要なものとなってきています。私たちは、次のような問いにつ いて考える必要があります。「和解なしに正義は実現可能か?」、言いかえれば、「私たちは和解のプロセスにおいて、過去の不正義が忘れられたり、人々を苦 しめたりしないように、不正義にどのように対処すべきなのか?」という問いです。
  「和解」(reconciliation)ということばは元々、「再び共に招かれる」という意味です。つまり、争っている二つの勢力、二つの敵対勢力に 対して、新しい関係を築こうという招きです。神学的な観点から見た和解とは、神と人間との関係の破壊を修復することです。この修復のプロセスは、まず神が 始められ、次いで人間が信仰によって神に応えて、最終的には人類社会が新たな被造界として再建されるのです。ですから、キリスト者にとって和解への希望 は、私たちのただ中で救いのわざを行われるキリストへの信仰と、密接に結びついています。神との和解を極端に霊的な意味で解釈すると、しばしば個人主義 的・主観的アプローチに陥る危険があります。
  「正しい関係を築く」ということは、正義に基づいた関係を築くということです。「和解」と「正義」の関係を理解するためには、「正義」ということばを最 大限に広い意味で理解しなければなりません。それは、伝統的な正義の三つの側面です。すなわち、対等な個人同士(あるいは私的な集団同士)の相互的な関係 を要求する交換的(commutative)正義、不正義に対する補償を要求する応報的(retributive)正義、そして最後に修復的 (restorative)正義です。
  デービッド・ホレンバックは、和解と正義の関係を拡大して、「和解を、困難な現実をいっさい変更することなく、霊的な現実にのみ還元することはできな い」と述べています。和解は、一対一の人間関係にとどまらず、修復的正義へと導くことによって、政治的領域にまで及びます。
  修復的正義は未来志向です。それは「未来に実現されるべき正義」という視点から働くのです。修復的正義は関係を修復し、不正に排除された人々を再び社会へ と招き入れることによって、共同体の再建を目指します。修復的正義は社会の全メンバーに、自らの人間的尊厳を守る必要に応じて共通善の恩恵を受け、また共 通善に貢献することによって、社会生活に積極的に参加することを保証します。こうして、和解は正義への関わりをいささかも減少させませんし、正義が回復さ れないうちに赦しを求めたりもしません。和解は正義を要求しますが、赦しを与えることによって、正義を超えたものとなりうるのです。

エコロジーをめぐるさまざまな集団
  世界各地-特に発展途上国で、多くの貧しい人々や周辺に追いやられている集団の生きる権利が危機に瀕しているという、深刻な現実が明らかになっていま す。和解の究極の目標が、必要な分配的正義の視点を失うことなく、修復的正義の原理に基づいて被造界との新たな関係を築くことであるなら、私たちはこう問 いかけなければなりません。「今ここで必要なチャレンジとは何だろうか?」「『大地-生命-人間-地球-宇宙』という連続体を、包括的でダイナミックな、 さまざまに変化しうる生命のプロセスとして保護し、維持し、促進するためには、どうすればよいのか?」。被造界は生態系を消費することによって「痛めつ け」、レオナルド・ボフが言うところの「新たな貧しい人々」が私たちに向かって叫んでいる-というのが、基本的な理解です。私たちは、環境問題におけるさ まざまな集団の役割を見極める必要があります。
  最初は周辺に追いやられている人々、貧しい人々です。気候変動の経済的影響についての研究で有名なニコラス・スターンは、「21世紀の二つの大いなる チャレンジは貧困の克服と気候変動の制御であり、この二つは別々の要素ではなく、相互依存的に密接に結びついている」と述べています。発展と貧困の削減を 気候変動と究極に結びつけているメカニズムは、今やよりいっそう明らかになっていて、雇用や日常生活、健康、性別役割や安全保障との関係も表れています。 一つだけ例を挙げてみましょう。農村の女性たちの日常生活は、自然環境に大きく依存しており、気候変動にともなう影響や天然資源の枯渇から直接的な打撃を 受けるのです。
  第二のグループは、社会の中心で暮らす、豊かな人々です。中心にいる人々は、過剰に消費し、膨大なゴミを生みだすことによって、環境問題を加速させてい るのです。増大する食料需要を満たすために農地が急速に拡大し、食料生産のために河川の水を汲み尽くし、農薬と肥料で水を汚染しています。
  第三のグループは、増大しつつある中流階級、ニュー・リッチと呼ばれる人々です。経済の自由化は新たな機会を拡大し、経済力のある人により高い生活水準 を提供しました。たとえば、インドでは1980~90年代に社会と政治に変化が起こり、中流階級が有力な社会の担い手となって、社会の価値観の変化に貢献 しました。中流階級の劇的な増加と、彼らの経済成長の要求は、多くの発展途上国に共通して見られます。世界銀行の試算では、世界の中流階級は2000年の 4億3千万人から、2030年には11億5千万人に増えると予測されています。2000年には、世界の中流階級に占める発展途上国の割合は56%だったの に対して、2030年には93%になると予想されます。中国とインドだけで増加分の2/3を占め、中国は増加分の52%、インドは12%です。

  私たちは、こう問わなければなりません。「今、ここで問われている問題は何か?」。気候変動を解決するために求められるアプローチは、二酸化炭素の排出 を抑制する技術的な解決策と、環境に与えるダメージを減らす生き方を見いだすことにかかっています。自然環境の分野では、森林や動植物、農業や漁業におけ る選択があります。人類社会の分野では、エネルギー利用や環境汚染、廃棄物管理、インフラストラクチャー、安全保障、災害への対応などがあります。中でも 重要なのは、市民社会の消費主義的な文化と、政府の環境対策への取り組みです。
  東アジア・太平洋地区のイエズス会は、地区の優先課題の一つとして、「エコロジー」のテーマを選びました。具体的には、今年の7月にカンボジアでワーク ショップを開催します。地区のイエズス会員が取り組むエコロジーに関するプログラムについて、話し合う予定です。日本からすれば、特に東日本大震災以後、 原子力発電の問題が、イエズス会の文書では直接に触れられてはいませんが、もっとも大きな環境問題として浮かび上がっています。

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