《 社会の窓から③ 》思想・良心・信条の自由への危惧

光延 一郎(イエズス会社会司牧センター長)

  ここのところ、学校での「日の丸・君が代」強制への流れが強まっていて、心が晴れません。
教育とは自由な人格的な交流があってこそ実りのある営みだから、「日の丸・君が代」の歴史的背景や意味をきちんと検証・清算しないまま、起立や斉唱を 「強制」することは教育現場にふさわしくないと考える教員たちは、とくに2003年の東京都教育委員会通達をめぐってかなりの数の裁判を起こしました。し かし二・三の例外を除いて、そのほとんどは敗訴です。人権、とくに少数者の立場を救済するのが司法の役割ですが、この件に関して日本の裁判所は、自らすっ かり上からの支配構造と一体化しているように思えてなりません。
  強制に抵抗している先生たちも、概ねそろそろ定年を迎え、学校から去りつつあります。さらに最近、大阪の橋下知事は、「国家斉唱」の際に教職員は「起 立」しなければならないとする条例まで通してしまいました。どんなに抑圧された状況においても、心の自由をもちつづける教員は必ずいると思いますが、しか しこのままではいずれ、処分を覚悟で職務命令に抵抗する人はますます少数になるでしょう。そういう状態は日本の教育、社会のうちに、触れてはならないタ ブーへの沈黙やそれに従わないマイノリティーを排除する空気をたちこめさせることになると思います。それが行き着く先は、命令と統制がすべてを機械的に支 配する非人間的な社会であるのに…。
  そもそも、すでに克服されたはずの過去が、同じ形で現代人を再び苦しめるということ自体が疎ましいです。かつての日本は、人間にとって最も基礎的な権利 である「思想・良心・信条の自由」の価値などは無視して踏みにじり、侵略をはじめ暴力をいとわない国でした。その天皇主権時代の国旗と国歌が、平和と人間 の尊厳を擁護するべき国民主権国家の今においてまで、亡霊のように過去と同じ役割を演じることが問題です。
  いくつかの最高裁判決の共通点は、①「日の丸・君が代」への教員の起立斉唱を求める職務命令は、法律・学習指導要領に決められたことであり、②「式典にお ける慣例上の儀礼的な所作」「一般常識」「職務上のルール」であり、③「思想・良心の自由」を「間接的に制限する面がある」が、④公務員であり、生徒の模 範たるべき教員が不起立することは許されない…というものです。
  この論理は、「日の丸・君が代」の歴史的背景や意味内容にはあえて踏み込まないまま「国旗国歌=シンボル」であるとして、他国のそれと同列に尊重すること を求めます。しかし、日本の「国旗国歌」は国民の間に自然に浸透したというよりも、明治以来の国家主義教育と、戦後においても、度重なる「学習指導要領」 の改定、強行採決された「国旗・国歌」法と「新教育基本法」により、学校を主な舞台として人為的に導入されたものです。「強制」はないとして制定された 「国旗・国歌」法の結末が今の状態です。ちなみに国旗への愛着が強い米国においても、司法は学校での国旗敬礼への強制を許してはいません。
  また大阪では「公務員に不起立の自由なんてない。『君が代』がいやなら公務員を辞めろ」と橋下知事が言います。この言葉は、自分も大阪府知事という公務 員であること、そして公務員には日本国憲法への遵守義務があることを無視しています。日本国憲法の柱は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争と軍備放 棄による平和」です。公務員は、この原則にまず従わなければなりません。橋下知事の発言は、結局、自分の考えに従う者だけの組織と社会をつくろうとするも のであり、日本国憲法の理念とそれがめざす社会に真っ向から挑戦しています。こういう思惑こそが「日の丸・君が代」強制を推し進めようとする勢力の核心な のでしょう。教育内容とは無関係の「起立するかどうか」の一点で、上意下達の独裁組織への忠誠をはかり、不従順な教員を排除するのは、まさにかつて日本の カトリック教会を滅ぼした「踏絵」の構造そのものです。
  この問題に悩むキリスト者の教員は、「『日の丸・君が代』強制に反対し、信教の自由を求める超教派キリスト者の会」をつくって道を探しています。神の愛 といつくしみ、人間の尊厳と自由に向かって生徒と共に成長することを望んで教職を選んだ人々が、明るく仕事に励める日が来るように祈ります。マラナタ(主 よ、来て下さい)。

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